鈴木新田の斎藤佐右衛門の旅日記には、安政三年(一八五六)から明治六年(一八七三)まで断片的ではあるが、草津(群馬県草津市)での湯治の記録がある。安政三年には山口清大夫の湯治宿に泊まっているが、翌年に草津立町の相山仁兵衛方の宿に滞在して以降、相山方を定宿としている。同六年には相山方が滞在客で一杯であったため、近江屋権左衛門方に一時滞在し、相山方が空いたのを見計らって宿替えしている。宿場の旅宿や湯治宿などでは、常連客に書状を送るなどの営業活動も行っていた。毎年訪問するようなところでは、定宿ができており、これも旅に出やすくする一因となっていたといえる。
小平市域にも、多くの手引書が残されている。『改正絵入南都名所記』などの名所案内、『諸国順覧懐宝道中図鑑(しょこくじゅんらんかいほうどうちゅうずかん)』や『東海道・秋葉鳳来寺・伊勢参宮・大和七在所・高野山道・長谷南都越定宿所』、『中仙道下り善光寺廻り定宿附』といった道中一覧図などがある。
當麻伝兵衛家に残されている『あきは山・ほうらい寺かけこし道中記』には、墨筆による書き込みがある。それをみると、道中記には掛川と森町の間に「本郷川」のみが記されているが、新たに墨筆で「やな川」を書き加え、「川二ツ有」と訂正している。実際にこの地を訪れた者しか分からない内容といえ、東海道を旅した人物による書き込みと考えられる。これは、単に体験にもとづく自己満足というよりも、こののちに同ルートを旅する人のために訂正したものといえる。
図3-19 『あきは山・ほうらい寺かけこし道中記』
(当麻伝兵衛家古書)
同じく當麻伝兵衛家にある『諸国細見道中独案内図(しょこくさいけんどうちゅうひとりあんないず)』という道中概略図には、自らが歩んだ経路を墨筆でなぞった部分がある。一般的なルートの一つといえるが、弘化三年(一八四六)に當麻伝兵衛が旅した経路と一致している。おそらく、自らの辿った経路を記録に留めておくための行為であったと考えられる。
図3-20 『諸国細見道中独案内図』
(当麻伝兵衛家古書)