第一に、他地域における日常生活を旅先ごとに体験しており、自らが生活する場とは異なる慣習や風土などを目の当たりにし、大きな驚きや興味とともに冷静な視線でとらえ、教訓ともしていたのである。
嘉永二年正月(一八四九)に旅に出た斎藤佐右衛門は、大坂北御堂(現大阪府大阪市)での体験を「播磨屋市蔵方にて風ロ敷買に掛根なし、当地銀相場ハ六十四匁也、是ヲ六十八匁相場にまかすなり、風呂式は当地より京都か宜しき」と記している。播磨屋で風呂敷を購入した際、値引きなどの値段交渉を行わない掛値なしの商いに直面し、金銀相場を利用して実質的に割り引かせたと自慢げに記している。また、購入した風呂敷をみて、大坂よりも京都の方が質がよいとも記している。
また、摂津国須磨村(現兵庫県神戸市)を訪れた際に体験した風習について、「平家都を開き給ふて一ノ谷城未だならさる内、安徳天皇を始め公卿大臣民家に入せ給ふてみすを懸けさせ給ふ、其れ以今において民の家々はみすを懸る」と記している。須磨村の民家はみな御簾(みす)を掛けているが、これは平家が都を開いた際、一ノ谷城が未だ完成していなかったため、安徳天皇をはじめとした公卿(くぎょう)らを民家に住まわせ、民家に御簾をかけて対処したのに由来するということである。
一方、信濃国善光寺(現長野県長野市)では、「当所は大地震にて宿内残らず焼る、凡七百九十人死すと言う」(当所は大地震によって宿内は残らず焼け、およそ七九〇人の死者がでた)、「右善光寺大門は勿論、本堂前石灯籠等事々く地震にてゆり崩し今以て取りかたつけこれ無く、尤大門通り町屋普請等は有ら増し相出き申し候」(善光寺大門は勿論、本堂前の石灯籠などことごとく地震によって崩れ、今もって片づけられていない。もっとも大門通りの町屋の普請などは済んでいる)と、大地震による被害と復興のようすを自分の目で確かめている。
第二に、産業の現場への観光的関心や名産品に注目していることが大きな特徴としてあげられる。
一例として、同じく斎藤佐右衛門の旅日記の記述から拾ってみる。
名物 東海道元市場・白酒、肥後芋茎/安倍川渡し場・安倍川餅/宇津谷峠・十団子/日坂宿・わらび餅/三輪・素麺/備後国供津・酒/備前国・敦盛蕎麦/中仙道小野滝・蕎麦/中仙道寝覚宿・蕎麦/猿ケ番場・柏餅
名産 東海道由井宿・塩/和泉国堺町・鉄炮鍛冶/赤穂・塩、塩細工/姫路・皮製品/宇治・茶/中仙道藪原宿・櫛/中仙道本山宿・せば宿の間・獣皮
第一と名の付くもの 東海道岡崎城下の大橋「日本第一大橋」/奈良東大寺の鐘楼堂「大和国第一の鐘」/住吉四社大明神「日本第一大石灯籠」/大坂虎や満中「日本第一」/淀川「大坂第一之大川」/木曽川「中仙道第一ノ川」/伊香保温泉「湯ぢ一切の妙湯有、日本一ト言」
名産 東海道由井宿・塩/和泉国堺町・鉄炮鍛冶/赤穂・塩、塩細工/姫路・皮製品/宇治・茶/中仙道藪原宿・櫛/中仙道本山宿・せば宿の間・獣皮
第一と名の付くもの 東海道岡崎城下の大橋「日本第一大橋」/奈良東大寺の鐘楼堂「大和国第一の鐘」/住吉四社大明神「日本第一大石灯籠」/大坂虎や満中「日本第一」/淀川「大坂第一之大川」/木曽川「中仙道第一ノ川」/伊香保温泉「湯ぢ一切の妙湯有、日本一ト言」
このほかに、伊勢路追分には小鍛冶宗近の子孫で藤原国次という鍛冶がおり、鋏・小刀は「吉」と評価しているが、脇差の類は決して購入してはいけないと注意を与えている。また、安芸国宮島では、諸職人が多く消費過多のため、食物の値段が高いと記している。旅人の視線は常に異郷の日常生活に向けられており、自己の生活と比較しながら視野を広げていったのである。
図3-21 「伊勢讃岐道中日記」嘉永2年(斉藤茂家文書)
寛政一一年(一七九九)、大坂心斎橋筋久太郎町(現大阪府大阪市)の書肆(しょし)である塩屋長兵衛より、平瀬補世著・木村蒹葭堂(きむらけんかどう)校閲『日本山海名産図会』全五巻が出版された。この頃は、近世初期より特産地としてブランド化して展開した地域に対し、全国各地でそれぞれの地理的・歴史的要因に応じて新たな産地が成立していた時代であった。これらのことは、一八世紀になると、単に地方の名物に関心を持つ時代から、諸国の名産・特産へ関心を持つ時代になったことを示しているといえる。旅に出た人びとも、訪れた地域の名産へ視線を注ぐこととなり、見聞きしたことを旅日記に記したのである。
第三に、多くの旅人は、しばしば行く先々で近世以前の史跡を訪れている。これらの史跡には大抵は案内人がいて、賃銭を取って旅人を案内して周った。旅日記には案内人を雇っていたことが記されているが、旅日記の詳しい記述をみると、旅人自身が基礎的な知識を有していたと考えられる。この要因として、書物の出版や貸本屋の全国的な展開、歌舞伎や謡いといった歴史作品からの日常的な知識の習得といったことが基盤形成を担っていたといえる。書物や歌舞伎などの歴史作品による基礎知識と、現地での直接的な体験・見聞とによる歴史認識の構築がはかられていたことがわかる。
安政二年(一八五五)に榛名山(現群馬県)代参に赴いた斎藤佐右衛門は、上州妙義山(現群馬県)大権現に参詣した際、「右本尊意」については『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』や『田舎荘子(いなかそうじ)』などにあると記述している。これは、嘉永二年(一八四九)の伊勢・西国の旅からの帰途に同所を訪れた際にも、同様の記述を行っている。読書による知識習得とその発現の一端をうかがうことができる。