これら旅日記は、単に旅の思い出を書き残しておくというだけでなく、後に同じルートや目的地へ旅に出る者に対する情報提供と教訓を示すという意味があった。
ほぼすべての旅日記に記述されているのが、町並み・町柄・街道のようすである。例えば、天保一二年(一八四一)に伊勢参詣を行った斎藤弥三治の旅日記をみると、東海道吉原宿「宿柄至て宜敷く通り」(宿柄は宜しい)、東海道沖津宿「此宿みぢかし、宿柄悪敷く通りぬけ」(宿場は短く、宿の柄も悪いので素通りした)などのほか、中仙道戸倉宿「此所宿柄悪し、但し売女あり」(宿柄は悪いが、売女がいる)や、中仙道坂本宿「当宿至て人気悪し、宿引多分出、無体に引き込み、又は喧嘩仕掛け候抔儘あり」(この宿場の雰囲気は悪い。客引きが多くおり、無理やりに引き込む。また喧嘩を仕掛けられることなど頻繁にある)など、宿場の善し悪しや町並みについて評価している。また、街道の情報として、東海道法来寺麓大野村周辺「たら/\道なり」(たらたらとした道)、伊勢路落合周辺「至て難所なり」、中仙道宮ノ越周辺「少しつヽの坂あり、道悪敷くなり」(坂があり、道も悪くなっている)「右同断の道にて道悪敷し、右福嶋宿より馬加籠進まず候」(道が悪く、福島宿より先は馬駕籠では行けない)、中仙道軽井沢宿「上り下りあり、坂本宿見へ候所より急に下り難所あり」(上り下りがあり、坂本宿が見える辺りより急な下り坂となっていて難所である)など、高低差や宿場間の距離、難所や分岐点についても明示している。これらは、宿場、街道、駕籠、舟渡など基礎的な情報を伝えることで、後世に旅をする際に宿場やルート選定の参考とするための情報を提供したものである。
一方、宿場や街道のようすだけでなく、詳しく注意点や教訓を書き記したものもある。嘉永二年(一八四九)の斎藤佐右衛門の日記は、赤穂陸道について「此山坂上に備前播磨国堺有り、此道筋は人家これ無く候間、草鞋を仕度いたすべし」と記されている。また、ふごの渡しについては、「右ふ郷村去る申の七月水荒に付き、民家流し田畑へ砂押し懸け往来も不通難渋して通る、淀の領分也、其外北の方の往来も十三年以前水荒にて往来ようやく通り広き場所川と壱つに相成り池沼に相成り候、宇治へ罷り越し甚だ難渋に御座候、以後は八幡より淀伏見、夫より宇治え返り宜敷く存じ候なり」と記している。これは、昨年七月の大雨と洪水により、宇治へ行くことが困難となったため、以後はこのようなこともあるだろうから、八幡より淀・伏見に行き、そこより宇治へ引き返すルートがよいと、助言している。さらに、京都見物について、「私共京都少々見物仕り候、有増見物仕り候には七日余も逗留すべしとや」と、京都を満遍なく見物するには七日間は逗留する必要があると記している。
旅日記以外にも、大沼田新田の当麻伝兵衛家の文書群には、道中の風景を描いた墨絵が残されている。描かれているのは、富士山、鳳来寺(現愛知県新城市)、二見ケ浦(現三重県伊勢市)、淡路島、金毘羅山、小豆島、今熊山(現京都府京都市)、琵琶湖岸、美濃岩谷、妙義山、房州石の方丈である。
図3-22 「富士の図」(当麻伝兵衛家文書)
『当麻伝兵衛家文書目録』口絵より転載。
文化七年(一八一〇)刊行の八隅蘆庵『旅行用心集』には、旅の途中で「山川の真景」を描くことについて、見たままをスケッチし、帰郷した後に清書するべきであると記している。この頃には旅の途中で名所などを描くことが一般化していたことを示しており、同時期に刊行されていた多種の名所記・名所絵の影響と考えられる。
また、旅先で句を詠んだり、松尾芭蕉の句碑を記録したものもある。本節1でみたように、近世の多摩地域では俳諧が盛んに行われており、小平市域にも多くの俳人が存在した。
小川新田には、安政四年(一八五七)正月に出発した伊勢参詣の記念碑として、「奉太太神楽記」碑が建立された。小川新田名主の小川重好ほか村民等四一名による参詣の旅であり、撰文を府中六所宮神主の猿渡盛章、書を谷保村(現国立市)の医師の本田覚庵に依頼したものである。このほかにも、全国各地に同様の記念碑が建立されている。
図3-23 「奉太太神楽記」碑