近世も後期になると、地域にも医師が存在し、医療行為が広まっていった。
まず、小平市域での医師の存在を確認する一つの手段として、村明細帳の記述をみることとする。幕府や領主・代官の求めに応じて村側から提出されるもので、各村の基本事項をまとめたものである。目的や提出先によって記述項目が異なるため、必ずしも医師の存在を明記する必要のない場合も多かった。
大沼田新田では、天明六年(一七八六)及び寛政一一年(一七九九)の村明細帳に、修験や浪人、座頭などとともに、医師が存在していないことが記されている。小川村では、宝暦一二年(一七六二)の村明細帳に、医師が一名存在することが記されている。他の村々では、村明細帳に医師の存在の有無についての記述はなかった。
小川村の一名は、日吉山王社の山口求馬もしくは神明社の宮崎伊織と考えられる。両家とも、近世に医家として存在していたことが確認できる。
廻り田新田には、文政一二年から天保四年(一八二九~一八三三)までの間、小川乙右衛門地借りとして、医師憲斎の存在が人別帳から確認できることから、これら村明細帳の記述がすべてとはいいがたいが、地域社会に医学・医師が広まった一方、すべての村・地域に万遍なく存在していたともいえないのが近世の実態であった。