喜連川茂氏の御手医衆である秋元浦庵、宮脇雲悦、皆吉流石、酒井知宅といった面々の前で診察し、薬種の指示をしていることからも、東磻が江戸の名医として診療を請われたことがわかる。
薬は、痞傷門養胃湯に去半夏(きょはんげ)・人参一分・苓朮(りょうじつ)を入れたもの、もしくは補気健中湯(ほきけんちゅうとう)、あるいは寛中養胃湯(かんちゅうよういとう)、この三つのうちのいずれかと指示している。早速調合するように指示され、御手医衆の望みにより、痞傷門養胃湯を一貼調合して渡している。いずれも漢方薬であり、この時期には漢方医学が主流であったことがわかる。この後も、薬什香、白冠去、炒芍薬など様々な漢方薬を適宜調合して渡しており、漢方薬について幅広い知識を有していたことがわかる。
東磻による小平地域での診療実態については不明であるが、名主役の傍らで診療行為をしていたとしても不思議ではない。近世中期の地域社会では、小川家のような一部の階層によって医学が学ばれ、限られた医家として存在していた。
図3-24 「日記覚」明和4年(小川家文書)