現在残されている文書群の中には、近世に医療を受けた痕跡が多く確認できる。しかし、村内に医師が存在していなかったところも多く、近くに存在していた場合も、緊急的・即時的な対応が可能であったかどうか疑問もある。その際に頼りにされるのが村役人であり、村役人側も責務として認識していたと考えられる。谷保村の本田覚庵、国分寺村の本多雖軒もそれぞれ名主家の人物であった。
近世後期になると、村役人やその子弟のなかで医学を学ぶ者も多く存在した。これは、「必シモ上手ニナルベキヤウニハナク候」と記されるように、医者を目指したのではなく、村民と家族の健康を管理するため、村役人の資質として学ばれたものであった。村役人家の蔵書には医学関係の書物が含まれている場合も少なくなく、そのような村役人側の意識の表れの一つといえる。
本多雖軒の記した「手控帳」には、小川新田名主であった小川重好について記されている。その個所は「木犀園記(もくせいえんき)」と題されているが、「木犀園」とは小川家の庭園にあった木犀の古木に由来した重好の号のことである。
そこには、小川家では代々、名主役とともに医師を兼業していたとある。医者として益々栄えるとともに、多くの村民や近郷の病人を救い、村民からは感謝の念とともに、恩愛を込めて慕われていたという。雖軒は、号である木犀の花のように、重好の名声は芳しかったと記している。
小川家にとっても、単に名声を得ることが目的ではなく、名主としての責務として代々医学を学び、村民の健康管理に気を配っていたと考えられる。