近世後期には、漢方・蘭方の医学がもたらされ、周辺地域の医師のほか、江戸の医師をも視野に入れた選択が行われていたことがわかる。
小川新田の小川杏斎も、複数の医師の診察を受けることで、病状の回復を目指している。本田覚庵の往診を継続的に受診するとともに、江戸市ケ谷の田村某の診察も受けている。地域社会に医師が広く存在するなかで、かかりつけ医という関係が構築されていたが、病が重くなると、江戸の名医による診察を求めており、患者側による医師の選択という行為も行われていた。
その一方で、近世の人びとの病気・医療に対する認識の特徴を示すものに、覚庵が病気で倒れた際の対応が事例として挙げられる。元治二年(一八六五)二月一一日、覚庵は卒中と思われる病状を発病するが、その際に「天神様」や「府中明神様」へ祈祷を頼んでいる。西洋医学をも導入した覚庵であるが、覚庵自身の病気に対して家族は神頼みを行っていたのである。近世後期以降、西洋医学が広く普及したことで克服された病も多かった一方、当時の医療ではどうしようもできなかった病も多かった。有名なところでは、安政年間(一八五四~六〇)に流行したコレラに対し、「アメリカ狐」や「イギリス疫兎(えきと)」などの仕業とし、神犬を祀った武州三峰神社(現埼玉県秩父市)の御札で追い払おうとした。
このように、複数の医師に診察を受ける一方、祈祷や寺社への代参など宗教的な方法にも依存していたのが近世の特徴であり、小平市域でも広くみられた対応である。