では、これらの蔵書は、どのようにして蓄積されたのであろうか。詳細な蓄積過程は不明であるが、大きくは版本と写本によって構成されている。書物の購入については、江戸の本屋のほか、近世後期には近隣町村にも書店が開設されていたと考えられ、直接購入や注文によって入手していた。一方で、近世には貸本屋も多く存在しており、江戸から多くの書物を背負って多摩地域の得意先にも回っていた。貸本は購入するよりもはるかに安価であり、どうしても購入したい書物以外は貸本を利用し、そのうち必要と判断した場合に写本が作成されたのである。また、全国的に、地域内で書物の貸借も行われており、さまざまな手段で多岐にわたる書物を入手することが可能であった。
書物には蔵書印が押されており、近世から近代にかけて、〝蔵書〟として一体的に把握されていたことがわかる。例えば、大沼田新田の當麻家では「當麻蔵書」、小川新田の宮崎家(熊野宮)では「武州小川 一本榎」という蔵書印が押されている。
図3-26 「當麻蔵書」印
図3-27 「武州小川一本榎」印
近世に作成された蔵書目録がないので総体的な把握は困難であるが、現在残っているものだけでも、その種別は多岐にわたることがわかる。
特徴的な書物としては、まず儒学書の多さがあげられる。どの家の蔵書にも、必ずといってよいほど含まれている。これは、本文中でも触れたが、儒学思想が近世の基本的な思想として、武士から民衆まで浸透していたことが要因である。特に村役人層の間での倫理的指針として儒学思想が受容され、自らの課題解決のために主体的に解釈・理解し、それを実践していくことが目指されていた。太平記などの軍記物も、教養書として読まれることが多かった。
つぎに、豊富な教養書があげられる。廻り田新田の斉藤家には、往来物などの教育書のほか、囲碁関係の書物が他家と比べて特徴的である。福生村(現福生市)の石川家の日記には、囲碁を楽しむ地域住民の姿が記されており、主に上層農民の娯楽として受容されていたことがわかる。斉藤家や小川村の小川家、大沼田新田の當麻家には、長唄・謡曲・雅楽の教本が残されている。謡も上層農民の嗜みとして広く普及しており、地域社会における家格を示し、同じ階層の家々との交際にも必要とされたといえる。
ここで簡単に紹介したものは、蔵書として蓄積された書物のごく一部であり、ほかにもさまざまな教養が身につけられている。ただ、どの家にも万遍なく各ジャンルの書物があるのではなく、家によって偏りが見られる場合もある。その家ごとで学ばれた特定の教養や、蔵書の主たる構成者の趣味が大きな要因となっている。
近世後期にもなると、地域でも多くの手習塾が存在し、高度な学問を学ぶ場合には江戸の私塾への遊学も行われるなど、教育機関における学習が広まった。一方で、全国的に書物の出版・流通や貸本が普及すると、さまざまな書物を入手することが可能となり、自宅での独学も行われるようになる。現在、個々の書物がどのように読まれ、どのような知識が身につけられたのかという分析とともに、蔵書総体の構築過程や特徴から家の特色を読み解く分析も行われている。