名所になるまで

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玉川上水堤での植樹では、桜の種もしくは苗が植えられたと考えられる。つまり、植樹の時期には諸説あるが、満開の桜花を観ることができるまでにはある程度の歳月が必要となるため、植樹直後から名所として行楽客を招くことはなかったのである。一方、享和年間(一八〇一~〇四)に刊行された『享和雑記(きょうわざっき)』には、「小金井の桜見事なる事は炭附(すみつけ)・下掃除(しもそうじ)に来る者どもの咄(はなし)にのみ聞及し」とあり、桜花が咲き誇るようになってからも、商売などで訪れる一部の人々の間でのみ知られていたという。
 では、いつ頃から、玉川上水堤桜並木は名所として知られるようになったのであろうか。ここでは、玉川上水堤桜並木について記した地誌や紀行文の記述から探ってみたい。玉川上水堤桜並木が書物で取り上げられるようになるのは、寛政年間(一七八九~一八〇一)中頃である。
 植樹からしばらくの間は、人々の関心が向けられることはほとんどなく、来訪する人がいるという話は聞いたことがないと書物にも記されている。ようやく享和・文化年間(一八〇一~一八)頃の地誌や紀行文に、近年は江戸や周辺地域から多くの花見客が訪れるようになったと記されるようになる。地誌や紀行文によってまちまちであるが、おおよそ文化年間(一八〇四~一八)中頃より玉川上水堤桜並木が広く知られるようになり、来訪する花見客で賑わうようになったといえる。

図3-28 『玉花勝覧』(小金井市教育委員会所蔵)