江戸の人びと、とくに文人らの間では、隅田川堤の桜と比較して優劣を評価することが多かった。文化三年(一八〇六)三月に来訪した幕府儒者の林述斎(はやしじゅつさい)は、温井橋(貫井橋)から観た感想として「景物此(けいぶつここ)ニ至リテ墨水(ぼくすい)ヨリモ勝レリ」と、貫井橋からの景観は隅田川堤よりも優っていると評価している。一方、『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』を著した十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん)は、桜では隅田川堤よりも優っているが、「古今の僻地(ここんのへきち)」と述べている。この「古今の僻地」という認識は広く共有されており、文化一三年三月一七日に来訪した鯖江藩間部家(さばえはんまなべけ)儒者の大郷良則は、当初は前日の一六日に来訪する予定であったが、天候が覚束なかったために近い隅田川堤の桜を観に行き、翌一七日は天候が良かったので玉川上水堤まで来訪したと記している。
このような江戸から遠距離にあるという認識は多くの紀行文にみられ、一日で往復することを考えると、朝暗い午前六時頃に江戸を出発し、昼頃に玉川上水堤桜並木に着き、暫く観覧してから帰宅すると、午後九時頃になってしまう。その頃には、皆は精魂尽き果ててしまうようすが記されている。幕臣で文人としても有名な大田南畝は、その存在を以前より知っていたが、なかなか来訪することはなかった。その理由を著書『一話一言(いちわいちげん)』に、「路の遠きを恐れていまだ見ず」と記しており、更に次のような狂歌を詠んでいる。
「花よりも 先かこちんそ おしまるゝ」
来訪しなかった理由を、道が遠く、駕籠賃が惜しいからであったという。
一方、このような地理的要因が、隅田川など江戸府内の名所との差異を生むことともなった。先の林述斎とともに来訪した佐藤一斎(さとういっさい)は「人亦稀疎(ひとまたきそ)なり、即ち其の遊ぶ者も、率(おおむ)ね皆な好事の韻士(いんし)にして、墨水の花時、士女の駢闐(へいてん)せるが似(ごと)くならず」と記し、安政三年三月(一八五六)に来訪した佐倉藩士の依田学海(よだがっかい)も「墨水・飛鳥は〓雑(そうざつ)にして厭(いと)うべきに似ず」と記すなど、玉川上水堤桜並木へ来訪する者は相応の目的と覚悟を持った人であり、気軽に行ける江戸府内とは性格が大きく異なると記している。つまり、老若男女が群集する賑やかな隅田川の桜に対し、好事の韻士(文人)が集う静閑な玉川上水堤の桜という対称的な位置づけをしているのである。
ただ、玉川上水堤桜並木を高く評価しているものだけではない。先の依田学海は、その紀行文をまとめた『学海日録(がっかいにちろく)』において、はじめは隅田川堤や御殿山の桜にも優るものと大いに期待して来たが、「花と景と未だ必しも墨・殿の上に出でず」と、玉川上水堤の桜を観て失望したということを記している。その優劣の評価については来訪した人それぞれであるが、玉川上水堤桜並木が隅田川堤などと同じく、江戸の名所として広く認知されていたことがわかる。
また、江戸の人びとは、玉川上水堤を含む武蔵野に対して、鄙(ひな)(田舎)の名所(「郊外の勝地」)という、江戸府内とは違う異文化観を求めていたといえよう。江戸近郊にあることから、手軽に都会を離れ、別空間を味わえる絶好の場所として認知されていたのである。多くの紀行文には、江戸府内とは異なる風俗などについて詳しく記述されており、江戸から来た人々が興味を持って接していたことがわかる。
まず、小金井橋の北側、鈴木新田の地にあった柏屋で働く女性について、『小金井橋にあそふことは』では「此の家女たちうまいせるいとおかし、されともむさほるやうにしもあらす、都のらうかはしきに似もよらす」と、その食事の仕草について都会との差異が記されている。
さらに、江戸の文人である屋代弘賢(やしろひろかた)は、『小金井橋にあそふことは』において、知識人らしい感覚で詳しく観察している。屋代が来訪した日に、同じ鈴木新田の海岸寺で葬儀が催されていた。葬儀に参列していた者たちが男女ともに「額烏帽子(ひたいえぼし)」を付けているのをみるにつけ、江戸では女性が付けることは無く、江戸とは風俗が異なって田舎らしいと感想を記している。井の頭周辺では耳の遠い老爺と言葉を交わしているが、ここでも言葉が田舎なまりで何と言っているわからなかったと述べている。
このように、名所「金橋桜花」としての玉川上水堤桜並木は、文化年間(一八〇四~一八)中頃以降、江戸の人々にも隅田川や飛鳥山、御殿山と並ぶ桜の名所として広く認知される存在であった。一方、江戸府内から離れた郊外の地であり、好事の文人墨客が集う静閑な地であり、江戸では味わえない鄙の風情を感じられる場所でもあったのである。そのため、江戸近郊でも数少ない特徴を持った名所となり、江戸時代を通じて多くの人々が来訪する地となったのである。