多摩地域を取り上げた地誌類には、玉川上水堤桜並木が紹介されている。また、来訪した文人らの日記や紀行文にも、道中の様子や桜並木の情景や賑わいが詳しく記されている。このような桜並木を記した地誌・案内記や日記・紀行文は、現在のところ、五六点が確認されている(『小金井市史』資料編小金井桜)。
玉川上水堤桜並木を紹介した最初のものは、寛政六年(一七九四)に刊行された古川古松軒(ふるかわこしょうけん)の『四神地名録(しじんちめいろく)』といわれている。先に述べたように、この頃はまだ名所として認知されてはおらず、人の口伝てで広まる程度であり、他地域から花見にくる人も少なかった。ようやく地誌や紀行文などでも取り上げられるようになり、江戸の文人らを中心に、玉川上水堤桜並木の存在が知られることとなったのである。
そして、玉川上水堤桜並木への遊覧を決定づけたといわれるのが、寛政九年(一七九七)に刊行された大久保狭南(おおくぼきょうなん)の『武野八景(ぶやはっけい)』である。狭南は、名を忠休(ただやす)といい、幕臣で書院番士(しょいんばんし)や西丸付(にしのまるづき)などを歴任し、致仕(ちし)後は江戸聖坂(ひじりざか)(現港区)で漢学塾を開いていた人物である。出身は多摩郡清水村(現東大和市)で、宝暦五年(一七五五)に幕臣大久保忠寅の遺跡を継いでいる。狭南という号は、出身地の清水村が狭山南麓にあることにちなんで付けたという。
この『武野八景』では、「金橋桜花」のほか、「六所挿秧(ろくしょそうおう)」(現府中市)、「立野月出(たてのつきいず)」(現国分寺市)、「玉川観魚(たまがわかんぎょ)」(現日野市)、「函崎旧池(はこざききゅうち)」(現瑞穂町)、「吾庵畳翠(ごあんじょうすい)」(現埼玉県所沢市)、「宅部寒鳫(やけべかんがん)」(現東大和市)、「将塚暮靄(しょうちょうぼあい)」(現東村山市)の八景が紹介されている。
図3-29 『武野八景』
(国立国会図書館所蔵、デジタル化資料)
この書物を刊行するにいたった経緯について、狭南はその序文に次のように記している。ある時、郷里の甥の学友である孫一という人物が江戸の狭南のもとを訪れ、郷里を四方に誇らしめるために武野八景を選定したので、それに添える漢詩を詠んでくれるように依頼してきた。それに対して狭南は、中国の著名な地誌『瀟湘八景(しょうしょうはっけい)』に拘泥しすぎていると指摘した。結果、孫一は狭南に八景の選定を依頼し、狭南は娘婿の石子亭(せきしてい)とともに着手したのである。
狭南はその序文で、「子の志は則ち美なり、子の作は則ち不可なり」と、孫一の意志は褒め称えており、それを手助けするという認識であったことを述べている。また、「景に即して名を選ぶべし」と、往古より和歌に詠まれる名所(「ナドコロ」)ではなく、実際の情景などを考慮して選定すべきであることを指摘している。
狭南の意図は、当時ですら玉川上水堤桜並木をはじめとした武蔵野の名所は世に知られておらず、数十年後には全く忘却されてしまう恐れがあり、まだ現存している名所を朽ちさせないため、世に広めることを目指して編さんしたことにあった。また、『武野八景』を編さんするにあたり、江戸の著名な文人らから詩文や書画を寄せてもらっていた。多摩居住の孫一や多摩出身の大久保狭南は、江戸の文人らを利用することで、武野八景を世に広く知らしめようとしたのである。一方で、狭南は江戸の文人であるともいえ、郷里と江戸との結節点としての役割を果たしていたのである。このような地域住民主体の活動、江戸の文人らを取り込み、利用した地域文化の展開は、江戸時代後期以降、全国各地でみることのできるものであった。
この『武野八景』刊行以降、多くの行楽客が当地へ来訪し、玉川上水堤桜並木は名所「金橋桜花」として広く世に知れるところとなった。しかし、名所「金橋桜花」の名のみが一般的に認知されるにつれ、それを紹介した『武野八景』やほかの八景自体を知る人が少なくなってきている皮肉な状況を、小金井橋北側にある鈴木新田の酒楼・柏屋の主人から指摘されるに至ったのである。柏屋主人からは、柏屋に来訪する行楽客に『武野八景』を示せば、中にはそれに従って八景の一つや二つも巡る者も出てくるかもしれないので、『武野八景』を柏屋に送るように要請されたという。
また、八景をともに選定した娘婿の石子亭からは、『武野八景』は漢文体で読みにくいので、子どもでも読みやすい仮名文体のものを作成することを助言され、これには柏屋主人も同意見であったという。このことから狭南は仮名文体の『武野八景』を著し、それを柏屋主人のもとに送ることを約束した。そして、文化五年(一八〇八)に『仮名略文 むさしの八景』が刊行されることとなった。
図3-30 『仮名略文むさしの八景』
「武野八景」復刻刊行会『仮名略文むさしの八景』より転載)。
この書物において狭南は、『武野八景』を著した経緯を再度記している。それによると、風土記等の書物や古老からの聞き取りなどを参考に自ら選定するとともに、当時の著名な文人らに詩文・書画を提供してもらったこと、知る知らないに拘わらずに『武野八景』を贈ることで、武野八景を知ってもらうとともに、その名を広めることであったという。
この頃には、一枚刷の案内図である『金井橋桜標(こがねいばしさくらのみちしるべ)』が刊行された。この板元は江戸日本橋本石町(ほんこくちょう)(現中央区)十軒店(じっけんだな)の西村源六であり、葛飾北斎(かつしかほくさい)が江戸から「金橋桜花」までの道程を略図で描いたものである。注目されるのは、取次として柏屋勘兵衛の名が見られることである。現地で花見客に土産として販売することを目的にしたものであろうが、恐らくは柏屋勘兵衛が企図したものであったと考えられる。
図3-31 『金井橋桜標』(小金井市教育委員会所蔵)
郷里を世に知らしめたいという動機で刊行された『武野八景』により、毎年多くの行楽客が来訪することとなった。それに伴い、地域の名勝が江戸の人びとの名所となることで、商品価値としての経済性も出てくることとなったのである。柏屋勘兵衛の積極的な活動は、地域の文人としての文化活動とともに、自らの商売を盛り立てるための経済活動の意味もあったといえよう。