江戸時代後期以降、「金橋桜花」の名は世に広まり、江戸近郊の名所としての位置を確固たるものとした。玉川上水沿いに立ち並ぶ桜樹と満開の桜花という「金橋桜花」の情景は、直接来訪した人だけでなく、未だ訪れたことのない人びとの間にもイメージされ、生涯に一度は観てみたいという気持ちをかき立てたのである。そのようなイメージ形成を助けたのが、地誌や紀行文などの刊行された書物の記述、そしてそこに描かれた挿絵や色鮮やかな錦絵などの絵画であった。特に、安藤広重や葛飾北斎などの人気絵師によって描かれたことで、「金橋桜花」の情景は広く人びとの知るところとなった。
現在確認できる挿絵や錦絵などの絵画作品は四九点で、そのうち安藤広重のものは一八点あるという(『名勝小金井桜絵巻』)。これらの挿絵は、はじめはスケッチ程度の略図であったが、次第に緻密に描かれるようになっている。また、来訪する人びとが増加した文化年間(一八〇四~一八)以降は、花見客で賑わうようすも描かれるようになり、花見の季節の「金橋桜花」のようすが手に取るように分かるようになった。
では、そこにはどのような要素が描かれているのであろうか。主なものは、柏屋、手折りを禁じる高札、秋葉社、海岸寺、小金井橋近辺の人家、花見客、富士である。絵画の構図や視点の方向は様々であるが、描かれているもののほとんどが鈴木新田に存在する酒楼や寺社などであり、これらが「金橋桜花」に付随するものとして認識されていたのである。それぞれの要素の有無や描かれ方は時期によって変化するが、ほぼ共通したものとなっている。
注目できるものに、葭茅や雑木等が全く描かれていないことが挙げられる。後述するように、桜樹が植えられていたところには、隔年で刈り取りが実施されていたとはいえ、葭茅や雑木が生えていたことがわかる。しかし、絵画作品では、刈り取られた後の整備された土手堤という情景が抽出されているのである。