徳川家康によって江戸が政治の中心となると、その城下町には全国各地から多くの人びとが集まった。しかし、いまだ開発途上の地であり、それまでの中心地であった京・大坂からみれば、何の名所もない田舎と蔑まれていた。そのなかで、江戸からみえる富士は、京・大坂にはない自慢の景物であった。江戸時代初期には、江戸からみえる富士がイメージとして量産されるとともに、隅田川を中心として、東の筑波、西の富士という型が確立したのである。江戸の町を描いた鳥瞰図を見ると、これらの要素を全て盛り込んだ、地理的に無理のある配置で描かれたものが多いことに気付く。やがて、江戸の代表的な景観として富士、武蔵野、隅田川、筑波が認識されるとともに、富士と筑波を対にして造形されるようになり、隅田川と筑波という組み合わせも成立していく。
このようななかで、隅田川堤の桜と比較対象とされた武蔵野の「金橋桜花」という関係性から、「金橋桜花」・富士が、隅田川・筑波の対として描かれるようになったと考えられる。安藤広重の錦絵には、必ず「金橋桜花」とともに富士が描かれている。『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』の挿絵を基調とした〝実証性〟のもとで、名所ごとに定着している景観のイメージを定型として取り込んだことが広重の成功に繋がり、また人びとも広重の名所絵にこうした構図を求めたのである。
図3-32 『江戸名所図絵』小金井橋春景
(国立国会図書館所蔵、デジタル化資料)
このように、「金橋桜花」が名所として認知されると、多くの行楽客が来訪して実際の桜花を楽しむと同時に、書物や絵画を通じたイメージとしての「金橋桜花」が人びとの間に形成され、共有されていくという二通りの拡がりを見せることとなったのである。実際の玉川上水堤の情景と、実際とは異なるイメージとしての情景が存在することになり、なかには実際に訪れたが想像と違うことで失望したと記した紀行文もある。