図3-33 『江戸名所花暦』(柏屋が右に詳しく描かれている)(早稲田大学図書館所蔵)
花見の季節には、麦飯や蕎麦、地酒のほか、鮎や筍、蕨など旬の物が提供されていた。また、一年中を通じて商っており、秋から冬には熱燗や温かい茶を出していたという。
柏屋は、主人のほか、妻と子供による家族経営で、娘と思われる一六、七歳の女性二名が客に給仕している様子が紀行文に記されている。主人不在の時もしばしばあるようで、実質的に女性だけで経営されていたと考えられる。
二階建てで、周辺の店と比較しても大きかった柏屋であるが、花見の季節には大勢の行楽客が宿泊するため、しばしば手狭となった。その際は、同じく鈴木新田にある近くの海岸寺などに頼んで泊まらせてもらったという。
ただ、柏屋の醍醐味は、何と言っても高殿(二階)から望む景色であった。二階で食事をしたり、酒を酌み交わしながら、欄干越しに見渡す小金井橋周辺の桜を愛でることが、文人らのステータスでもあった。また、月が明るい時は、夜更けに雨戸を開けて、静かななかで酒を呑むことが楽しみの一つであり、夜の景色もまた格別であったのである。
この柏屋の主人が勘兵衛であり、商人としてだけでなく、「主人風雅のもの也」と言われるような地域を代表する文人でもあった。江戸や周辺地域から来訪した文人が集う二階には、桜花を詠んだ詩歌を請う帳面が備えられ、彼らが自由に詩歌を記帳することができた。柏屋は、「金橋桜花」を訪れた文人らのサロンとなっていたのであり、勘兵衛は彼らを快く迎え、懇ろに交流したのである。
ある時、薩摩藩士の岩井直郷が花見を終えて江戸へ帰ろうとすると、後ろの方から幼い女児の呼ぶ声がした。忘れ物でもしたのかと思って立ち止まると、勘兵衛からの使いであると言い、桜の枝を岩井に手渡した。聞くと、岩井を見た勘兵衛が、花に心の深い人物だと思い、贈ったのだという。勘兵衛の人柄の一端を伺うことができる。
また、先述したように、江戸から「金橋桜花」までの案内図である『金井橋桜標』の刊行に携わり、大久保狭南の『武野八景』への助言や販売の取次を買って出るなど、出版文化とも積極的に関わっていたことがわかる。
柏屋勘兵衛は、この地域の中核的な文人であり、多摩地域や江戸とのネットワークを構築しており、それらと小平地域との結節点となっていた。一方で、開花予想を知らせたり、案内図や名所記の刊行・販売に関わるなど、旅宿の経営者として行楽客誘致のための活動も積極的に行っていた。文人と商人という二つの面からの活動であったといえよう。