江戸へ送る上水は、江戸府内の何十万という人びとの飲料水となり、その生命に関わるものであった。そのため、幕府の指示のもと、地域住民による芥浚(あくたさら)いなど上水の維持管理が行われた。また、農業用水・生活用水としても引水された(第二章第六節)。一方、小川村地先では、土手堤には松木が植えられ、普請などの際の材木供給地となったほか、秣場としても利用された。地域住民にとっては、生活と密着した場であり、諸役の負担の場でもあったのである。
また、行楽客は花見の季節に来訪するため、玉川上水堤=桜という認識しかないが、地域住民は四季を通じて堤の景色を眺めており、桜もその一つの景色に過ぎなかったのかもしれない。春には桜樹の間に菜の花が咲き、草が生い茂り、蕨などの植物が生えていた。秋には両岸が薄(すすき)で覆われ、桜樹の間に生えた柿の木の実が赤く色づき、鈴なりにたわわに実っていたという。地域住民は、玉川上水堤の四季折々の風景を楽しんでいたのである。
図3-34 『江戸近郊八景之内小金井橋夕照』
(国立国会図書館所蔵、デジタル化資料)