玉川上水両岸の土手堤は五間の幅があり、元文検地の際、畑地側の二間は道路として無年貢地とされたが、上水側の三間は「玉川上水縁芝野」とされ、下草を刈り取る代わりに、芝野永を賦課されることとなった。
この「玉川上水縁芝野」は、北岸の約二三〇〇間(約四キロメーロル)は田無村、南岸は梶野新田(二反八畝九歩)、下小金井新田(一町五反一畝一三歩)、鈴木新田(九反八畝一歩)、境新田(一町一反二五歩)の担当となっていた。田無村が管理した北岸は、西から小川新田、廻り田新田、鈴木新田、是政新田、関野新田、境新田、上保谷新田の地先であったが、それら地先村とは関係なく「玉川上水縁芝野」を管理する村が設定されたのである。
管理を担当した村々は、芝野を刈り取り、それを販売したり、肥やしとして利用することで芝野永の負担を支えていた。しかし、嘉永七年(一八五四)四月、担当する村々より、芝野永の半減を求める願書が提出された。その内容は、近年、芝野永が増加されたこと、幅三間(約五・五メートル)のところが浸食によって二間に減っていること、桜樹保護のために村々の意図に添わない芝野の刈り取りが指示されたこと、上水の水流を保護するために水際の葭茅が刈り取られてしまったことが要因で、芝野永を賄うことができなくなってしまったので、芝野永を半減してもらいたいというものであった。ここからは、地域住民の玉川上水堤との関わりが読みとれるほか、桜樹が植えられているなかにも、芝野や雑木が茂っていたようすをみて取ることができる。
この上水両縁の葭茅や雑木については、寛政一三年(一八〇一)以降、隔年で刈り取りが行われていた。上水両縁はきれいに整地されていた時期もあれば、刈り取り直前の生い茂った状態の時期もあり、多様な姿を見せていた。その中で、錦絵や書物に描かれる「金橋桜花」は、整然と整備された芝野のなかに桜樹が植えられている姿であった。つまり、葭茅や雑木等が生い茂った状態ではない、整備された姿が意図的に描かれたのである。これは、読者として対象とされたのは江戸や他地域の人びとであり、名所としての桜花をより美しく描くための技法であったといえよう。上水両縁の管理の差異はあるが、明治以降の絵葉書などにも共通したものであり、金橋桜花のイメージとして定着していったことがわかる。