花見の季節の騒動

693 ~ 694 / 868ページ
毎年春になると、地域住民のほか、江戸から多くの人びとが来訪し、花見や酒食を楽しんだが、人が集まるところに騒動は付きものであった。呑んで暴れる者、他の行楽客と喧嘩する者が絶えなかった。
 文化八年閏二月(一八一一)、多摩郡本宿村(現府中市)の百姓織右衛門が、廻り田新田の髪結(かみゆい)勘五郎ら三名を相手取った訴訟が代官川崎平右衛門役所へ持ち込まれた(史料集一七、二六六頁)。織右衛門の主張は、柳窪村(現東久留米市)へ田肥やしを買い請けに行った帰り、玉川上水堤桜並木沿いの道を歩いていたところ、勘五郎らに理不尽にも悪口を言われ、ついには勘五郎は剃刀(かみそり)、他の者は棒を持って襲ってきたという。更に、大切な証文や金子の入った鼻紙袋を落としたのを拾われてしまったが、相手は日頃からの「強気(ごうぎ)のあぶれ者共」(威勢の強いならず者たち)であったため、そのまま逃げ帰った。今後も同じ道を通らなければならないため、代官所より三名の者を糺すことと鼻紙袋を取り返してもらえるように訴えたというものである。
 一方、勘五郎はこの訴訟内容に異議の旨を返答しており、織右衛門は偽りの申し立てをしていると主張した。その内容は、本宿村名主四郎兵衛などは四、五人連れにて玉川上水堤桜並木で花見をしていたが、上水へ礫(つぶて)や塵(ごみ)を投げ込むなど種々の悪事を働いていたという。それに対し、名主より高札番とともに、上水の障りや花見客の迷惑になる行為を見つけた場合には取り押さえるように申し付けられていた勘五郎は、これらの者たちを取り押さえにかかった。四郎兵衛らは、勘五郎に悪口雑言を言い、さらには勘五郎宅の前の桜樹に「ひもじひか 桜か下の きらす床」などと詠んだ短冊を下げて逃げ去ったという。また、鼻紙袋を奪ったこともなく、盗人同様の悪名を申し掛けられ、外に出歩くこともできなくなったというものである。
 各々、その後に話し合いのために相手方を訪れたが、全く相手にされなかったと主張しており、結局は代官所への訴訟となった。
 扱人(あつかいにん)が間に入り、四月に代官所へ内済証文(ないさいしょうもん)が提出され、解決にいたった。訴えられた勘五郎側は酒に酔って悪口雑言を言ったと非を認めて謝罪し、鼻紙袋は別の通りすがりの者が拾って保管しており、無事に織右衛門側に返却された。
 この一件は桜並木の周辺住民が起こした事件であるが、江戸からの花見客、近隣住民、他地域から公私用で訪れた者など、様々な人びとを巻き込んだ騒動は、花見の季節には数多く発生していたであろう。
 行楽客は、花見の季節にのみ訪れ、日常の世界から解放された一時を過ごすだけであるが、この桜並木周辺の住民は、巻き起こる騒動や玉川上水に掛かる負担も受け入れざるをえなかったのである。「金橋桜花」、玉川上水堤という同じ場所ではあるが、他地域からの行楽客と地域住民とでは、その関わり方や認識は全く違ったものであったといえる。

図3-35 『江戸名所図会』小金井橋付近
(国立国会図書館所蔵、デジタル化資料)