桜樹の枯木化

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あまり世に知られていなかった「金橋桜花」は、ようやく文化年間(一八〇四~一八)中頃より名所として広まり始めた。一方で、それと同時期、桜樹の古木化・枯木化も目立ち始める。
 早くも享和三年(一八〇三)の『小金井橋花見の記』には、「北のかたはおほくはかれたり(北の方は多く枯れている)」と記されている。文化一〇年(一八一三)に来訪した十方庵敬順は、その著『遊歴雑記』において、三〇年前までは花が最も盛りであったが、その頃はまだ知られていなかったので来訪者もいなかった。今は行楽客が夥しいが、昔に比べて桜樹は衰えてしまっていると、皮肉めいた記述をしている。
 植樹されてから数十年が経ったことや、多くの花見客が来訪したことで桜樹の根元が踏みつけられたり、枝が折られ持ち帰られたりしたことにより、桜樹の衰弱が進むこととなったのである。そのため、地誌や紀行文には、昔は一〇里余りも桜並木があったが、今は二里くらいしかないという記述が目立つ。留橋(とめばし)(喜兵衛橋)より西は、二、三町ほどに桜樹が疎(まば)らに生えている程度という状態である。

図3-36 『富士三十六景 武蔵小金井』
枯木化した桜並木が描かれている
(国立国会図書館所蔵、デジタル化資料)