このような状況のなか、嘉永三年(一八五〇)正月に代官大熊善太郎役所より、玉川上水堤の桜樹の補植が指示された。この指示が出されたのは、「玉川上水縁芝野」を管理する村々であった。この触書は、北岸を管理する田無村あてと、南岸を管理する鈴木新田ほか四か村あての二通りが出された。
その内容は、玉川上水堤の桜樹は武蔵国中にまたとない花の名所となり、さらに天保一五年(一八四四)に徳川家定の御成もあった。しかし、古木が目立つようになり、このまま放置すれば枯木も増え、やがて廃絶してしまう恐れがある。心を尽くして植樹したものが絶えてしまうことは嘆かわしいが、村々も上水縁の事なので猥(みだ)りに手入れもできず、そのままとなっている。このような「土地の誉れ」である桜並木を後世へ伝える功績は大きく、村々互いに申し合わせて補植を行うことを指示するというものである。
桜の苗木は、近隣の桜を根分けしてもらうか、兼ねてより心掛けて桜樹を仕立てている者もいれば、それぞれ持ち寄って、桜樹の間隔が空いているところへ植樹するようにと説いている。また、小前末々まで申し渡し、農隙を見計らって懈怠(けたい)無く作業を行うようにと指示している。
補植の範囲は、上保谷新田(現西東京市)地先より境新田(現武蔵野市)、関野新田、是政新田(以上、現小金井市)、鈴木新田、廻り田新田、小川新田までの二三〇〇間であった。補植した木数は、北岸は田無村一三一本であり、南岸は境新田一三本、梶野新田四〇本、下小金井新田一二一本、鈴木新田一三七本、計三一一本である。
補植の経費は、指示した大熊代官所より苗木植人足賃・肥代等が支払われる旨の通達があった。しかし、南岸については、担当する間数の長短にかかわらず、担当した四か村で申し合わせ、村役として負担することを申し出ている。その結果、肥代のみを下げ渡されることとなった。北岸の田無村も同様の対応であったと考えられる。
安政三年(一八五六)二月にも同様に補植が行われ、前年の八月には代官小林藤之助より勘定所へその旨が報告されている。この安政三年の補植では、田無村名主の下田半兵衛が主導的な役割を果たしており、それに先だって植樹方法をまとめて小林代官所へ届け出ている。
この安政の補植を経た桜並木の状況は、北岸は二三〇〇間に大木四九本、中木四一本、小木一七二本、古木四本、補植した苗木二〇四本で、総数四七〇本となった。南岸は、境新田の担当分は三〇〇間に総数二二本(大木一本、小木九本、苗木一二本)、梶野新田の担当分は二八〇間に総数七七本(大木七本、中木五本、小木五一本、苗木一四本)、下小金井新田の担当分は一六〇〇間に総数三一八本(大木三九本、中木五本、小木一〇二本、苗木一七一本)、鈴木新田の担当分は九二六間に総数二三〇本(大木七本、中木七本、小木一三五本、苗木九一本)となっている。北岸と南岸とで各々届け出ているため、幹の大きさの計り方に差はあるが、両岸ともに嘉永と安政の二度の補植を行ったことで、若い木が大半を占めることとなり、桜並木の再生に成功したといえよう。
補植の経費については、嘉永期と同様に全額を村役として負担することを届け出たが、苗木肥代手当が下げ渡されている。南岸の補植にかかった経費を見ると、江戸府内への出張の際には宿賃や番頭への付け届け、紙代が計上されている。また、植樹作業に必要な縄・筵(むしろ)、御用杭、筆・墨のほか、代官所役人の御用出張に掛かる宿賃・昼食代・お茶代も村々が負担した。さらに、献上した苗木を内藤新宿(現新宿区)まで運搬するための人足賃や車代も負担している。桜苗木の購入代金は不明であるが、田無村名主下田半兵衛の調べでは、丈が六尺(約一八二cm)以上のもので銀一匁五分くらいからあるといい、植付手間代は一人につき約八本の植え付けで銀三匁くらいであろうと述べている。