これら嘉永三年(一八五〇)と安政三年(一八五六)の補植以降、地域住民による日常的な土手堤と桜並木の管理が指示される。主な内容は、倒木の届け出、部分的な補植、土手堤の芝野や雑木の整備、桜枝の手折りの取り締まり、桜並木沿いの道の掃除などである。
雑木切り払いの触書が度々出されており、土手堤は芝野が広がる整備された場所へと変わっていくこととなった。土手堤の芝野や雑木は、この時期には生活物資としての需要はほとんどなくなっており、桜樹保護のために刈り取られても、芝野永負担に影響するくらいで、地域住民の生活に影響はなかった。
また、補植以前の弘化二年(一八四五)三月には、桜枝の手折り厳禁の触書が廻(まわ)っており、花見の季節には上水沿いの者だけでなく他村々の住民も油断無く心付け、もし手折りする者がいた場合には厳重に制止するように指示が出されている。この手折りについては、これ以降も継続的に心掛けることが求められており、地域住民による管理の重要な役割となっていたといえる。
桜の補植が「玉川上水縁芝野」を管理する村々に指示されたのに対し、このような日常的な維持管理については、桜並木地先の村々をはじめ、周辺村々にも及んだ。代官勝田次郎役所手附の岡本弥一郎が榎戸新田出役先より出した嘉永五年(一八五二)二月の雑木切り払い触廻状は、小川新田や鈴木新田、野中新田など一〇か村に宛てたものであるが、これらの村々のなかには代官江川太郎左衛門の支配地もあるが「桜木は一体の義」のため、支配の枠組みを超えた管理体制を求めたものであった。
これまで桜樹の管理はほとんど行われてこなかったが、補植を契機として、地域住民による日常的な管理が行われるようになった。従来の芝野や雑木といった生活物資の管理ではなく、桜樹を中心とした整備・管理へと変わったのである。これらの活動は、結果的には、名所としての「金橋桜花」の整備に繋がるものであった。