まず、文化七年の建碑事業は、文化五年の大久保狭南『仮名略文 むさしの八景』刊行、同七年三月の「小金井桜樹碑(こがねいおうじゅひ)」建立、同八年『遺愛花(いあいのはな)』刊行という一連のものである。大久保狭南の『武野八景』(寛政六年刊)と『仮名略文 むさしの八景』については、既に述べたので、省略する。
図3-37 「小金井桜樹碑」
ここでは、鈴木新田の海岸寺門前に建立された「小金井桜樹碑」について、詳しく見ることとする。碑銘の撰文は大久保狭南、題額は文人でもある佐野肥前守義行(さのひぜんのかみよしゆき)という旗本が行っている。碑文は漢文体で刻まれているが、読みくだしたものを次に挙げておく。
武州多摩郡玉川上水の小金井橋の上下両岸の桜樹、
有廟(徳川吉宗)の時、川崎平右衛門定孝の種うる所、大凡古は十里余、今は二里の間に千株余と云う、初め定孝、武野墾闢(武蔵野新田の開発)の役に及び、与(あずかっ)て功有り、遂に褐(低い身分)を司郡(代官)に解く、是に於いて、請うて朝命を承り、芳野及び諸邦の名種を採り、之を雑え種う、郡民子来して封植亟(すみやか)に畢る、実に元文二年丁巳歳也、其の挙は、衆根の深く堤中に入りて、長く壊闕の患無からんことを慮る、則ち両岸の樹数均しく、而して南岸は葉茂り、北岸は花盛るは、豈徒ならんや、其の陰陽を相(み)、其の便宜を度(はか)る、春は艶陽に随い、往来の目を悦ばし、夏は炎光を障り、行旅を憩わせしむ、且つ開花鮮美、暎じて清潔を加う、落英繽粉、浮かびて汚穢せず、且又吾が東方の医家、一、二の方函(処方)に桜〓(おうじょ)(桜樹の皮)及び花を総て解毒の剤に用いれば、則ち水毒も亦解くべしと、況や両岸の千株相蔭暎し、直流して径に東都に入れば、何の毒か之れ有らん、宜なり、億兆の爨炊(さんすい)の用、煎茶第一の水、鬼神に薦め、公侯に羞むる所なり、誠忠にして心を用うるは、庶乎仁政一助哉、前十余年、余、女婿の石子亨を誘い、郷里親旧と多摩郡中の名区(名勝)を歴覧し、優たる者を八所撰び、子亨と其目を議定し、各に題辞を附し、事実を審にす、其の一つ金橋桜花、則ち此の所也、遂に題を武野八景と為し、梓し以て世に公にす、是に於いて、人は奇勝を察し、一覧せんと欲する者は尠からず、爾後、遊人春毎に相倍蓯(ばいし)し、野路綿綿、人肩摩し、馬蹄連なる、騒人詞客は吟詠を相競い、異説稍間起す、余、吾が題辞の相混乱し、人以て鹵莽(ろもう)(粗略)と為さんことを恐れ、子亨と同じく、定孝の孫の川崎平蔵を押立村に就き、終始を質訪す、三人相謀りて石に刻し、違を永世に防がんとす、銘に曰く、
(中略)
文化七庚午年春三月二十一日建
有廟(徳川吉宗)の時、川崎平右衛門定孝の種うる所、大凡古は十里余、今は二里の間に千株余と云う、初め定孝、武野墾闢(武蔵野新田の開発)の役に及び、与(あずかっ)て功有り、遂に褐(低い身分)を司郡(代官)に解く、是に於いて、請うて朝命を承り、芳野及び諸邦の名種を採り、之を雑え種う、郡民子来して封植亟(すみやか)に畢る、実に元文二年丁巳歳也、其の挙は、衆根の深く堤中に入りて、長く壊闕の患無からんことを慮る、則ち両岸の樹数均しく、而して南岸は葉茂り、北岸は花盛るは、豈徒ならんや、其の陰陽を相(み)、其の便宜を度(はか)る、春は艶陽に随い、往来の目を悦ばし、夏は炎光を障り、行旅を憩わせしむ、且つ開花鮮美、暎じて清潔を加う、落英繽粉、浮かびて汚穢せず、且又吾が東方の医家、一、二の方函(処方)に桜〓(おうじょ)(桜樹の皮)及び花を総て解毒の剤に用いれば、則ち水毒も亦解くべしと、況や両岸の千株相蔭暎し、直流して径に東都に入れば、何の毒か之れ有らん、宜なり、億兆の爨炊(さんすい)の用、煎茶第一の水、鬼神に薦め、公侯に羞むる所なり、誠忠にして心を用うるは、庶乎仁政一助哉、前十余年、余、女婿の石子亨を誘い、郷里親旧と多摩郡中の名区(名勝)を歴覧し、優たる者を八所撰び、子亨と其目を議定し、各に題辞を附し、事実を審にす、其の一つ金橋桜花、則ち此の所也、遂に題を武野八景と為し、梓し以て世に公にす、是に於いて、人は奇勝を察し、一覧せんと欲する者は尠からず、爾後、遊人春毎に相倍蓯(ばいし)し、野路綿綿、人肩摩し、馬蹄連なる、騒人詞客は吟詠を相競い、異説稍間起す、余、吾が題辞の相混乱し、人以て鹵莽(ろもう)(粗略)と為さんことを恐れ、子亨と同じく、定孝の孫の川崎平蔵を押立村に就き、終始を質訪す、三人相謀りて石に刻し、違を永世に防がんとす、銘に曰く、
(中略)
文化七庚午年春三月二十一日建
碑文の内容は、大きく四つに分けることができる。一つ目は、玉川上水堤桜並木の由緒である。八代将軍徳川吉宗の時代の元文二年(一七三七)、幕命によって新田世話役川崎平右衛門定孝が、大和国吉野(現奈良県吉野町)や諸国の桜種を植えることを計画し、その植樹は地域住民も加わって行われたというものである。二つ目は、桜樹の景観と効能である。北岸と南岸で品種を変えることにより、春は花見の行楽客を招き、夏は照りつける炎光を遮る役割を果たす。また、桜樹の皮による水毒の浄化の効用を説いている。三つ目は、狭南が著した『武野八景』の刊行と名所化である。多摩郡中の名所を歴覧して八景を選定したことと、『武野八景』『仮名略文 むさしの八景』の刊行を契機として行楽客が増加したことである。そして、四つ目に、桜植樹に関する異説を防ぐために、その経緯を石に刻んだという石碑建立の目的を記している。
この石碑は、その内容から、この地域に住んでいる人びとではなく、他地域、特に江戸から来訪した多くの行楽客に向けられたものと考えられる。玉川上水堤桜並木の由緒を広めるとともに、その共有化・統一化を目指したものであった。重要な目的は、多くの文人らが来訪することで、異説が間々生じる状況になることを危惧し、異説を永久に防ぐことを目指したということである。そして、名所「金橋桜花」を確固たるものにするため、多くの行楽客が通行する玉川上水沿いの海岸寺門前に建立されたのである。
地誌や紀行文を見ると、実際に多くの人びとがこの「小金井桜樹碑」をみていたことがわかる。桜並木の由緒については、その記述内容に濃淡はあるが、元文二年に川崎定孝によって植樹されたものとされている。若干の異説が見られるものの、ほぼ共通した認識を形成することに成功したといえ、石碑建立の役割が大きかったことを物語っている。
次に、この「小金井桜樹碑」を建立した人たちについてみることにする。多摩郡の人物としては、名所「金橋桜花」袂の鈴木新田名主の深谷定右衛門、狭南の故郷である清水村(現東大和市)の五十嵐清左衛門、川崎定孝の子孫である押立村(現府中市)の川崎平左衛門、八景の一つである宅部村(現東村山市)の石井勘左衛門、田中弥三郎、宮鍋仙治郎、入間郡山口領(現埼玉県所沢市)の金乗院である。石碑に刻まれている一六名・二寺院のうち、半数以上の九名・一寺院は江戸の文人であった。山梁亭堤好之、雪月居黛路哉、月中庵川上秋槎、品川の心海寺、巴屋六太郎、長谷川正輔子方、涌井半兵衛直賢、代耕堂加藤景範希賢、犀淵上條游子芸の名がみえる。ここには狭南の名は無く、娘婿の石子亨の名が刻まれているのみである。狭南は石碑の完成を見届けることなく、前年の一二月に亡くなっていた。
川崎家には、この石碑建立の際の奉納金請取証が残されている。鈴木新田の海岸寺と同村名主定右衛門から出されたもので、この両者が主導していたと考えられる。
この「小金井桜樹碑」は、江戸文人が多く名を連ね、内容も江戸や他地域からの行楽客を対象としたものである。碑銘も漢文体で刻まれており、文人らの知的営為であることを示している。ただし、石碑建立を主導したのは、海岸寺や定右衛門ら「金橋桜花」の袂である鈴木新田の者たちであった。
石碑が建立された直後の文化八年頃、『遺愛花』と題された句集が作成された。「小金井桜樹碑」の建立を待たずして亡くなった大久保狭南の追善句集である。詩歌や俳句を寄せているのは、碑銘に名が刻まれた者たちとほぼ一致する。「金橋桜花」の名所化に尽力した狭南を追悼するもので、碑銘文のほか、小金井橋付近と石碑を描いた挿絵が掲載されている。
図3-38 『遺愛花』
(三康文化研究所付属三康図書館所蔵)
これらの一連の事業は、「金橋桜花」周辺の地域住民と江戸の文人らとの文化的ネットワークによるもので、地域の中核的な人物と江戸の文人らが一体となった文化交流の一つの記念事業といえる。一方で、江戸や他地域の人々に向けて、名所「金橋桜花」の広い認知と名所としての地位の確立、自らの存在の誇示を目的としたものでもあった。各々の企画段階で地域住民が深く関わっており、江戸文人らを利用した「金橋桜花」の名所化とも評価できるものでもある。