これは、嘉永三年の植樹と関連したものである。具体的な事業は、嘉永四年(一八五一)三月の「桜樹接種記(おうじゅせっしゅき)」碑建立、同五年の小金井橋の石橋化普請の建議、小金井橋碑の撰文である。小金井橋碑の撰文については、安政三年(一八五六)にも行われることから、同年の石橋化普請の竣工や、桜樹の補植と関係しているとも考えられる。
嘉永三年の補植が終わった翌年の三月、玉川上水の関野橋付近に「桜樹接種記」が建立された。碑銘の撰文は桜の補植を主導した田無村名主下田半兵衛(しもだはんべえ)富宅、揮毫は田無村の医師賀陽玄雪(かやげんせつ)である。賀陽玄雪は、もともと遊歴の医者であったが、下田家の援助を受けて田無村で開業した人物で、文人としても知られた。下田富宅によって建立されたもので、基本的には個人による文化活動といえるものである。しかし、補植の中心的存在であったことや、地域の主導的立場にあったこと、そして碑文に刻まれた内容から、単なる個人の顕彰行為というだけではない意義があったといえよう。
その内容は、大きく三つに分けることができる。一つ目は、玉川上水堤桜並木の由緒である。承応年間(一六五二~五五)に玉川上水が開鑿され、享保・元文年間(一七一六~四一)に桜樹が植樹された。二つ目は、桜並木の景観と名所化である。桜花が美しく咲き誇るようすとともに、天保一五年(一八四四)の徳川家定の御成によって、更にその名を広く伝えたとする。三つ目は、補植を指示した代官大熊善太郎の顕彰と地域住民による補植である。大熊より力を合わせて補植するように命じられると、地域住民は「みな喜ひて数百本の木を足し植」えたと記している。また、この後も、心有る者は植え継ぎを行い、大熊の志とともに桜木を朽ちさせないことを要請する。
先の「小金井桜樹碑」と内容に大きな違いはないが、植樹時期を享保・元文年間(一七一六~一七四一)としたことと、代官大熊善太郎の功績を大きく称えていること、地域住民による補植と後の植え継ぎの要請という点が特徴である。
この時期には、多くの地誌や案内記が刊行され、日記や紀行文が作成された。それと同時に、これらを著した文人らにより、様々な史料や伝承の調査、書物の検証を通じて、桜の植樹時期も諸説が出されるようになっていた。享保期に植樹や補植が行われたとする書物も複数みられた。そのような中で、ここでは植樹時期を享保・元文期と大方の説を取り込む形で、曖昧な記述となっている。また、建碑の目的とも関連するが、植樹を行った川崎定孝については全く触れられていない。
これとほぼ同じ時期、小金井橋の石橋普請化が建議されている。小川村の小川家に残されている嘉永四年二月「小金井橋勧化帳」(史料集二三、二三三頁)によると、板橋のために度々破損し、遂には大破したために人馬の通行が困難となってしまったという。そして、石橋架橋を目指しているが、困窮のために自力では普請できないので、周辺村々へ勧化して資金の寄附を願っていると述べている。
勧化を行ったのは、下小金井村名主善左衛門、年寄勘之丞、年寄治右衛門の三名である。また、世話人として、代田村の水番・嘉十郎、田無村名主下田半兵衛、鈴木新田名主利左衛門ほか、小金井橋周辺の四か村の名主四名が名を連ねている。嘉十郎や下田半兵衛がいるのは、玉川上水や芝野の管理と関係してのことであろう。
小金井橋の石橋化普請がいつ頃から開始されたか定かではないが、翌年三月には小金井橋石橋化を記念した碑銘が撰文されている。撰文は渋谷安益で、発起人は下小金井村の名主大久保善左衛門、年寄鴨下勘之丞、年寄星野治左衛門である。世話人として、上小金井村の小川浅右衛門、下小金井新田の鈴木宇左衛門とある。これらのことから、小金井橋の石橋化普請は、下小金井村の建議であったと考えられる。
その内容は、小金井橋周辺が著名な名所で、江戸や諸方から多くの人びとが来訪していることと、下小金井村民や周辺村々の協力のもとで石橋化が実現したことであり、漢文体で刻まれている。特に、「困窮之村方(こんきゅうのむらかた)」「寒郷乏費(かんごうぼうひ)」のなかで、地域から財の多寡(たか)を論ぜずに協力してもらったことで成功したことを述べている。
石橋化竣工を記念したものなので、その表現には誇張もあるが、地域住民の協力によって完成したことが強調されている。また、「此の普請ハ相談もよく行届き、細工ハ至て美敷(うつくし)く奇麗也(きれいなり)」(この石橋化普請は計画策定も良く練り上げられ、欄干等の細工も極めて美しく奇麗である)とあり、日常の往来には必要のない、名所「金橋桜花」に相応しい細工も施されたことがわかる。
文化七年(一八一〇)と嘉永三年(一八五〇)の建碑事業は、ともに地域住民が主体となった文化事業といえる。一方で、前者が地域の中核的な人物と江戸の文人らの協業で、来訪する江戸や他地域の人びとに向けたものであったのに対し、後者は事業の主体が村役人らを中心とした地域住民であり、その内容も地域に居住する人びとに向けたものであったといえよう。これは、前者が商品価値という視点であったのに対し、後者は地域の連帯を強く意識したものであったともいえる。また、「小金井桜樹碑」は漢文体であったが、「桜樹接種記」や後に出された小金井橋碑文の口釈版は仮名文体という違いもあり、文人らの間で共有される漢文体に対し、広く地域住民に説き聞かす仮名文体という評価もできる。
両方の建碑を中心とした文化事業とその成果は、決して対立関係にあるものではなく、それぞれの段階における地域や社会の状況を反映したものと考えられる。