図3-39 『三十六花撰 東都小金井さくら』
(国立国会図書館所蔵、デジタル化資料)
安藤広重や葛飾北斎は、近景の構図を大きくとり、名所を取り巻く様子を小さく遠景に取り込むことで、その場のもつ名所のモチーフを強く印象付ける手法をとった。特に広重は、名所のシンボルを大胆に誇張して印象付ける手法をとったという。この二つの錦絵についていえば、その代表的なものといえるとともに、桜樹を最大のポイントとして描いたものであることがわかる。
二つの錦絵は、土手堤の高さなど描き方に微細な違いはあるが、全く同じ構図であり、玉川上水北岸の鈴木新田地先付近の桜樹を描いたものと考えられる。名所「金橋桜花」を描いたものであることから、同じく鈴木新田にあった柏屋付近で描いたものであろう。偶然にも同じ構図で描かれたというよりは、後から描いた喜斎立祥が安藤広重を強く意識していたと考えた方がよい。
二代目広重は、初代の門人であり、名を重宣といった。安政六年に初代広重の養女の婿として安藤家に入るが、慶応元年に不仲から離縁し、それ以降に喜斎立祥と名乗っている。重宣と名乗っていた頃より、初代広重の画風を模倣したものが多かったという。
二つの大きな違いは、桜樹の描き方である。一目してわかるように、前者が枯れた古木を描いているのに対し、後者は活き活きとした若木を描いているのである。先述したが、両者にとって、画面いっぱいに描かれた桜樹こそが、最大の注目点であった。
その中で、この両作品の違いを生み出した最たる要因は、嘉永・安政期の補植であったと考えられる。安政二年の古木員数調査では、北岸は古木四四本、若木三四本となっていた。つまり、安藤広重が描いた段階では、まだ補植した直後であり、桜並木に古木が目立っていたと想像できる。初代広重の目には、名所「金橋桜花」とは古木の桜を愛でる風情あるところと映っていたのだろうか。ただ、広重といえば、江戸近郊といえど自分の足で出向くことはほとんどなく、『江戸名所図会』に描く情景を頼っていたといわれている。
一方、喜斎立祥が描いた慶応二年頃には、補植から約二〇年が経ち、活き活きとした若木が大きく育っていたと考えられる。
捕植を契機として、村役人層を中心に、地域の名所・文化的結集点として捉え返そうという動きがみられたことは本文中にも述べたが、見た目にも金橋桜花が変わったと受け取られていたことがわかる。錦絵の購買者であり、錦絵から名所の情景を楽しんだ江戸の人びとは、この両者の違いをどのように受け止めたのであろうか。