とくに問題となったのは、集団化した無宿たち-アウトローである。地域を横断して悪事を働くアウトローたちに対し、幕府は充分な警察権を行使できなかった。というのも、警察権は基本的に領主に属し、たとえば、幕領で罪を犯した者が旗本領に逃げ込んだ場合、幕府役人は旗本領に踏み込んで捜査することはできないのが原則だった。そのうえ、関東は領主支配が複雑に入り組んでおり、幕府や領主は、アウトローの暴力行為や博奕などの不法行為を充分に取り締まるすべがなかったのである。後述するとおり、村人は無宿たちに生活や生産の基盤を脅かされ、若者たちは農業からの離脱と消費的な生活への誘惑にさらされ、両者が合わさり、村人の生命や、村の再生産が脅かされるにいたるのである。
小平市域の村々でも、宝暦九年(一七五九)に小川村で、友右衛門(ともえもん)という百姓が、徒党を組んで、名主小川東磻(とうはん)をはじめとする村人たちに言いがかりを付けて金銭を出させようとしたり、村人から金銭をたかり、横領するなどの悪事を働き、友右衛門やその悴弁治(べんじ)は「盗人(ぬすっと)同前の悪党(あくとう)」であると訴えられるなど(史料集一五、二二五頁)、アウトローが姿をみせ始める。以後も、村人が博奕などを催して訴えられたり、酒席での喧嘩沙汰が起こるなど、小平市域の村々でも、同様の問題が起こっている(史料集一五・一六)。
こうした状況に対し、幕府は、寛政二年(一七九〇)、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)の献策によって、石川島(いしかわじま)(現中央区)に加役方人足寄場(かやくかたたにんそくよせば)を設立した。江戸府内の無宿人を召し捕らえ、悪事の有無を調べ、悪事があれば罰し、悪事が無くとも、無宿人は寄場へ送られ労働に従事することを余儀なくされた。しかし、この制度により、かえって江戸市中から無宿人が関東の村々へ流出し、地域の状況はより不安定になったという。これに対し幕府は、寛政六年には関東代官の手代を村々に廻村させ、同一〇年には、村役人や身元宜(よろ)しき者から「取締役」を選任し、地域の風俗を取り締まろうとした。そして、寛政一二年には、幕領・私領問わずに関東代官の手代を頻繁に廻村させ、博奕などの風俗取り締まりを強化する方針を示した(『関東取締出役』)。このように、幕府は関東地域の不安定化に対し、手代を廻村させ、取り締まりの権限を強化するかたちで対応してきたが、一方で、取り締まりの当事者である手代自身も、当時人材不足が顕在化し、手代の不正や奢侈(しゃし)は社会問題化しつつあった。そこで、幕府は小禄(しょうろく)御家人を代官所の下僚(かりょう)として派遣する「手附(てつけ)」制を寛政六年に採用し、代官所人員のてこ入れを行った。そして、幕府は文化二年(一八〇五)、関東の村方での無宿人や浪人の徘徊(はいかい)、博奕などの悪事を専管で取り締まる職として、「関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)」を設置した。関東代官早川八郎左衛門政紀(はちろうざえもんまさのり)・榊原小兵衛長義(こへえながよし)・吉川栄左衛門貞寛(えいざえもんさだひろ)・山口鉄五郎高品(てつごろうたかしな)の四名の下僚である手代・手附の中から、各二名ずつ計八名を選んで関東取締出役(以下、取締出役と略)に任命し、幕領のみではなく、私領もふくめてどこでも横断的に関東全域を巡回し、どこででも犯罪者の捜査・逮捕ができるようにしたわけである(『関東取締出役』)。
取締出役は、地域の事情に通じた案内人(道案内)を配下に抱えて取り締まりに従事したが、関東という広域を八人で取り締まるには、自ずと限界があった。また、村方自体に構造的に無宿や浪人を生み出す背景があったわけで、それへの対処なくして、根本的な解決は望めなかったのである。従って、取締出役にとっては、村方での取り締まりに加え、実際に地域で取り締まりの当事者となる村役人への、日常的な取り締まりに関する「教諭」を行うことが、重要な職務であった。
図3-40 「県令集覧」文久3年 関東取締出役の頁(早稲田大学図書館所蔵)