取締出役の設置以降も、特に上野国(こうずけのくに)(現群馬県)周辺を中心に、アウトローは大規模集団となって地域を横行していた(高橋敏『国定忠次』)。小平市域でも、文化・文政期(一八〇四~三〇)には、博奕や、酒を原因とする喧嘩出入りが頻発し、手鎖(逮捕)となるものまであらわれていた(史料集一五)。また、無宿浪人の徘徊も盛んになり、たとえば大沼田新田の村入用帳によると、文政年間には毎年数十人の浪人が大沼田新田へやってきて合力(ごうりき)や止宿を求めており、文政八年(一八二五)には計五〇人もの浪人がやってきている(史料集二九)。
関東代官は、取締出役を臨時に増員するなどの対応を図り、文政九年には、無宿や浪人たちについて、鉄砲・鎗(やり)・長脇差などの武器を携帯して横行する者は、悪事の有無にかかわらず重罪ないしは死罪に処するという触を出した(『関東取締出役』)。こうして、幕府は悪化する地域の治安に対し、厳罰方針で臨むわけであるが、これに加え、より効率的に犯罪の予防と犯罪者の取り締まりを行うために、幕府は文政一〇年、「御取締御改革(おとりしまりかいかく)」を実施する。まず、同年正月、山本大膳雅直(だいぜんまさなお)・山田茂左衛門(もざえもん)至意・柑本兵五郎(こうじもとへいごろう)祐之の三名の関東代官を「関東在々取締方御用掛(ごようがかり)」に任命し、取締出役の現状と効果的な取り締まり方法などについて検討したうえで、同年二月、改革組合村の結成に関する触を出す。取締出役は、同年四月頃より関東村々を廻村し、前年に出した取り締まりの触に、あらたに倹約や奢侈禁止などの四か条を加えた触を周知徹底すると共に、具体的な組合村の組織編成を開始する。
組合村の組織編成にあたっては、取締出役側が素案を出し、地域との調整・折衝が行われ、調整が済んだ地域では、より具体的な、三九か条に及ぶ改革の趣旨を受け入れ、地域で取り締まりにあたるとの内容を示した請書・議定書を作成し、組合村々の連印をとって提出している。組合村編成の組織はその後文政一二年に完了し、九九五九か村、三三七組の組合村が組織される(『関東取締出役』、宮沢孝至「武蔵国「改革組合村」編成における「通り」と「組合限石高」について」)。