改革組合村の概要

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改革組合村は、幕領・旗本領・寺社領など、領主の違いを問わずに、地域的なまとまりによって数か村を組み合わせた小組合が結成され、いくつかの小組合をまとめて大組合が結成される二重構造になっていた。小組合には惣代(そうだい)と呼ばれる代表者・代表村が置かれ、大組合の中心には寄場(よせば)と呼ばれる村が選ばれ、寄場村の村役人は、寄場惣代(よせばそうだい)として、大組合を統括した。近世中後期になると、全国でさまざまな目的で地域的な結合が組合村として組織されると共に、領主や諸役所も、管轄村々を組合村として組織するなど、さまざまな組合村が結成されていた(久留島浩『近世幕領の行政と組合村』)。小平市域周辺でも、用水筋の流域村々で組合が結成され(小平市域では関野新田用水(せきのしんでんようすい)で組合が見られ、周辺では、千川上水(せんかわじょうすい)流域で組合が見られる(大石学編『千川上水・用水と江戸・武蔵野』))、代官の支配単位でも、組合村が結成されていた(後述)。
 改革組合村の主な役割は、無宿・犯罪人の取り締まりの強化である。改革組合村と寄場は、そもそも、取締出役が捕縛した囚人の圏(檻)(おり)を護送するためのルートであり、寄場は圏を中継するための場所でもあったことから、犯罪の取り締まりや予防に加え、武装し集団化したアウトローたちと戦闘することも、取締出役の重要な任務だった。また、取締出役は、組合村を通じて質屋をはじめとするさまざまな余業の調査を行っている(史料集一九、一〇二頁、第三章第一節)。取り締まりと共に、地域のなかでの商売や余業、貨幣の流通の状態について、関東全域を一定の基準で把握することも、改革組合村の重要な役割だった。