表3-16 小平市域周辺領主組合村構成 | ||||||
村名 | ① | ② | ③ | ④ | ⑤ | 現市町村 |
野塩村 | ○ | ○ | 清瀬市 | |||
野塩新田 | ○ | |||||
上清戸村 | ○ | ○ | ||||
上清戸新田 | ○ | |||||
下清戸村 | ○ | |||||
中清戸村 | ○ | ○ | ||||
中清戸新田 | ○ | |||||
清戸下宿 | ○ | |||||
関野新田 | ○ | 小金井市 | ||||
野中新田六左衛門組 | ○ | 国分寺市 | ||||
榎戸新田 | ○ | ○ | ||||
平兵衛新田 | ○ | |||||
上谷保新田 | ○ | |||||
廻り田新田 | ○ | ○ | ○ | ○ | 小平市 | |
小川新田 | ○ | ○ | ◎ | |||
小川村 | ○ | ○ | ◎ | |||
大沼田新田 | ○ | ○ | ○ | |||
野中新田善左衛門組 | ○ | |||||
野中新田与右衛門組 | ○ | |||||
日比田村 | ○ | ○ | 所沢市 | |||
田無村 | ◎ | ◎ | 西東京市 | |||
田無新田 | ○ | |||||
下里村 | ○ | ○ | ○ | 東久留米市 | ||
下里新田 | ○ | |||||
小山村 | ○ | ○ | ||||
神山村 | ○ | |||||
柳窪村 | ○ | ○ | ○ | |||
柳窪新田 | ○ | ○ | ○ | |||
前沢新田 | ○ | ○ | ||||
野口村 | ○ | ○ | 東村山市 | |||
久米川村 | ○ | |||||
南秋津村 | ○ | |||||
廻り田村 | ○ | ○ | ○ | |||
後ケ谷村 | ○ | ○ | ○ | 東大和市 | ||
高木村 | ○ | ○ | ○ | |||
高木新田 | ○ | |||||
芋窪村 | ○ | |||||
芋窪新田 | ○ | |||||
奈良橋村 | ○ | ○ | ○ | |||
宅部村 | ○ | ○ | ○ | |||
蔵敷村 | ◎ | ◎ | ◎ | 武蔵村山市 | ||
①安政2年 幕領田無宿組合(下田家文書) ◎は惣代 ②安政5年 熊本藩預所組合(小町家文書) ③文久3年 幕領田無宿組合(下田家文書) ④元治2年 幕領蔵敷村組合(里正日誌) ⑤明治3年 小川村組合(小川家文書) |
この、熊本藩預所への編入に際し、小川村の小前組頭(こまえくみがしら)は、以下のような嘆願を、預所役所に出している(史料集一八、一二四頁)。すなわち、小川村が村高は六七〇石余あり、家数も二〇〇軒を越え、村内も八組に分かれている大村である。改革組合村では、田無村を親村として四〇か村で組合を結成して所属している。しかし、通常、組合村の傍示杭(ぼうじくい)には「田無村外三九ケ村組合」と書くべき所だが、小川村は「往古の由緒もこれ有り殊に脇往還駅馬にて月六度の市立ちこれ有り」と、長い歴史を持つうえ、脇往還(わきおうかん)の宿場で月に六度の市が立つほどの村なので、傍示杭に田無村組合と書く訳にはいかないと田無村に掛け合い、「四拾ケ村組合」と記していたという。そうしたところ、このたび最寄り村々二〇か村が預所となるにあたり、改革組合村を離脱するとの方針が示されたため、五~七か村ほどの小組合を預所村々で組織するか、二〇か村の親村組合を結成する必要がある。そこで、小川村は、先に見たとおり地域のなかでも「重立居(おもだちお)」る村であり、名主九一郎(くいちろう)は多くの除地(じょち)を持つほどの家柄なので、小川村を小組合の親村か二〇か村の親村に据えれば、御用向きもスムースに運ぶというのである。同様の願いは、熊本藩預になる前の幕領時代にも、代官江川英敏(えがわひでとし)に対して「村方起立(きりつ)書上候扣」を提出して嘆願していたが聞き入れられず、熊本藩預所となった段階で、あらためて申し出ているわけである。
熊本藩では、預所の地域支配のため、独自の施策を展開すると共に(『東村山市史』)、特定の村の名主に苗字(帯刀もカ)を許可し、地域を序列化しようとしていたようで、蔵敷村(ぞうしきむら)(現東大和市)名主内野杢左衛門(うちのもくざえもん)や小川村名主小川九一郎、大沼田新田名主生當麻弥左衛門(たいまやざえもん)が苗字を記すようになる。一方、多摩郡の預所では、蔵敷村名主内野杢左衛門と下里村(現東久留米市)名主後見年寄四郎左衛門が惣代となっており、小川村組合はこの時にはできなかった。
しかし、熊本藩預所は安政五年には終わりをむかえ、もと田無宿組合の村々は、再び田無村組合へと戻される。小川村組合が実現するのは、明治に入ってからのことである。改革組合村は、明治維新後も、地域の取り締まり・法令伝達のネットワークとして、明治維新後も機能していた(松尾正人「戊辰内乱と町村支配」安藤陽子「維新期多摩郡の管轄替えと行政区画」)。明治二年(一八六八)、多摩地域での府県編成替えがあったことを受け、明治三年(一八六九)、改革組合村の編成替えについての嘆願が、小平市域周辺一〇か村から出される。そこでは支配替えに伴って寄場の統一性がなくなってしまったため、元田無村組合の五か村と、元蔵敷村組合の五か村との一〇か村で新たに組合村を結成している。そして、小川村は石高も多く、青梅街道の継場でもあり、普段から諸役人が通行するため「弁利(べんり)」でもあるとの理由から、小川村を寄場とし、蔵敷村名主内野杢左衛門と小川村名主小川弥治郎、小川新田名主小川弥一郎を惣代とする議定を取り交わしている(近現代編史料集五、四頁)。議定の内容は、これまで同様に取り締まりや、取り締まりにかかる諸費用、連絡や寄合の開催方法などについてが主である。こうして、小川村組合が誕生したのである。