地域へもたらされる異国船情報

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地域が貨幣経済の浸透と無宿の横行によって不安定化する一方、対外関係にも、問題が起こりはじめる。当時の日本は、四つの口(松前(まつまえ):アイヌ、対馬(つしま):朝鮮(ちょうせん)、長崎(ながさき):オランダ、薩摩(さつま):琉球(りゅうきゅう))を通じた管理外交体制を敷いており、海外情報も四つの口、特に長崎を通じてもたらされていたが、欧米の国々が、この四つの口を越えた関係を結びにやってきたのである。安永七年(一七七八)には松前藩に対しロシア船が通商を要求し、寛政四年(一七九二)にも、ロシアの使節ラクスマンが、漂流民の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を送り届けたうえで通商を要求した。幕府は対応に苦慮する一方、北方の海防体制を再構築する必要に迫られた。その後も、寛政八年にイギリス人が室蘭(むろらん)に、文化元年(一八〇四)にはロシア使節が長崎に貿易を求めて来航し、同四年にもロシア人が利尻島(りしりとう)を占拠し、同五年にはイギリス軍艦が長崎に来航するフェートン号事件が起こるなど、相次いで異国船がやってきて要求を突きつけている。幕府は蝦夷地(えぞち)(現北海道)を直轄領にしたり、東北諸藩に分割統治を命じるなどして警備体制を模索する一方、江戸湾周辺でも砲台を建造するなどの対応を取った。その後も、文政元年(一八一八)・五年に、相次いでイギリス人が浦賀(うらが)へ来航して貿易や薪水(しんすい)の補給を要求し、同七年には常陸国(ひたちのくに)の水戸藩領へイギリス人が上陸し、水戸藩が逮捕するなど緊迫の度を増していき、幕府は文政八年に異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を出すにいたる。
 こうした状況は、幕府や諸藩だけではなく、社会にも不安を醸成し、軍学者や国学者は海防策や攘夷(じょうい)の方法を議論・献策し、国のあり方が議論されるようになる。対外関係をめぐる情報は、この段階では、直接地域の経営や経済状況と関わる問題ではなかったが、村役人を中心とした村人たちは、知的好奇心や社会情勢への関心の高まり、日常的な武士とのかかわりなどから、異国船情報を積極的に入手しようとした(岩田みゆき『黒船がやってきた』)。
 小平市域の大沼田新田でも、「文化元年子(ね)九月六日ヲロシヤ船壱艘渡来先年松前に於いて下し置かれ候信牌(しんぱい)の写并に口書」という記録が残されている(當麻家文書)。この記録は、長崎奉行成瀬因幡守正定(なるせいなばのかみまささだ)・肥田豊後守頼常(ひだぶんごのかみよりつね)、長崎町年寄(まちどしより)高嶋四郎兵衛(秋帆(たかしましろうべえ(しゅうはん)))が、文化元年のロシア船渡来への対応に際し、これまでの異国船到来記録をまとめたものである。信牌とは、長崎に入港する中国船に配与され、入港の際には持参が義務づけられた許可証で、寛政四年にロシア使節ラクスマンが来航した際、幕府は信牌を与えてその場をしのいだため、文化元年に信牌を持参したロシア船への対応を迫られたのである。
 この記録は、信牌の写し、文化元年に来港したロシア船の日本にいたる迄の航路、長崎に到着後の動向と主張、乗組員の構成、この時ロシアから送還された日本人漂流民四名の履歴、ロシア国王からの親書の写し、贈り物の一覧などがまとめられている。この記録は、成瀬の家臣の中島忠兵衛(ちゅうべえ)が、成瀬家が長崎において苦慮しているようすを、江戸にいる成瀬家中と思われる中島庄右衛門(なかじましょうえもん)にあてて記したものである。奥付に「当麻氏」とあり、當麻家がこの情報をえて写したものだと思われる。記録を残した當麻家は、第二章第八節でもみたとおり、名主である一方、鷹場預り案内役(たかばあずかりあんないやく)を勤め、弟は千人同心(せんにんどうしん)であるなど、日常的に武士と接する機会がある人物である。當麻家では「文化三年カラフト島へ異国船来航の節届書并指図書写」も残されている。當麻家がどのようにしてこの情報をえたのかはわからないが、小平市域の人びとも、対外関係を注視していたことがわかる。

図3-42 「文化元年子九月六日ヲロシヤ船壱艘渡来先年松前に於いて下し置かれ候信牌之写并に口書」
(當麻家文書)