天保年間(一八三〇~四四)に入ると、対外関係はより緊張の度を深める。天保八年(一八三七)にはアメリカ商船モリソン号が浦賀に来港し、打払令を適用して攻撃したことが問題となる。隣国中国(清)が、天保一〇年から一三年にかけて、アヘン戦争によってイギリスをはじめとする西欧列強の植民地となっていったことを受けて、幕府は同一三年には打払令を撤回して薪水給与令を出し、異国船への対応を緩和した。以後、日本近海を訪れる異国船は一層増加し、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルは弘化三年(一八四六)に浦賀に来航して通商を求め、嘉永四年(一八五一)にも、アメリカ船が土佐の漂流民中浜万次郎(まんじろう)を琉球へ送り届けた。欧米の政治情勢は、長崎のオランダ商館長(しょうかんちょう)を通じて、オランダ風説書(ふうせつがき)や別段風説書として幕府にもたらされており、アメリカの強い日本開国姿勢は、別段風説書を通じて幕閣(ばっかく)も知るところとなっていた(松方冬子『オランダ風説書』)。ペリー来航予告が長崎からもたらされるなか、嘉永六年六月三日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる四隻の黒船が浦賀に来港し、大統領の親書を手渡した。ペリーは翌嘉永七年正月に再び来港し、日本に和親と通商を求め、三月三日、日米和親条約が締結された。条約は続けてイギリス・フランス・ロシア・オランダとも結ばれ、ここに二〇〇年間続いた鎖国・海禁(かいきん)が終わりをむかえた。
ペリー来航情報も、小平市域の人びとの関心を呼んだようで、廻り田新田には「亜美利加大合衆国願書の写」などが残され(斉藤家文書)、小川村には、ペリー来航に先立つ嘉永二年に、浦賀にアメリカ船が来航したことに対し、代官江川がその経緯をまとめた上で勘定所へ対応策を上申した意見書の写しが残されている(小川家文書)。また、嘉永六年のペリー来航以降、支配代官江川英龍から、「異国船渡来江戸表諸向日用多々に付き分水口差塞」「近頃異国船渡来に付き悪党もの江戸表立ち廻り」「相州浦賀辺異舟相見えに付き組合村々申し合わせ取り締まり第一」「異国船近海渡来の節悪党共厳重取り締まり」などと、ペリー来航に伴って玉川上水の水量が制限されたり、ペリー来航に伴う混乱に乗じて騒動を起こそうとするアウトローに対する警戒を強めるよう触れられている(史料集七)。こうして、小平市域の人びとも、ペリー来航を知り、その影響を受けるようになるのである。
図3-43 代官江川の上申書の写嘉永2年4月(小川家文書)