ペリー来航は、幕府に江戸湾警備の重要性を再認識させた。幕府は、ロシアの南下を受けて、文政年間(一八一八~三〇)以降、江戸湾防備体制を敷いていたが、ペリー来航後の嘉永六年一一月一四日(一八五三)、川越藩(かわごえはん)(一の台場)、会津藩(あいづはん)(二の台場)、忍藩(おしはん)(三の台場)、彦根藩(ひこねはん)(羽田大森(はねだおおもり))、岡山藩(安房(あわ)・上総御備場(かずさおそなえば))、鳥取藩(本牧)、熊本藩(相模国御備場)、長州藩(相模国御備場)と、江戸湾に建造した台場(だいば)と、江戸湾への入り口となる武蔵国・相模国の海岸防備とを、川越などの譜代藩と、岡山などの外様大藩に命じている。海防の負担に対し、岡山・熊本・長州藩には、武蔵・相模で預所が与えられている。この時、多摩地域の幕領が川越藩領になるが千人同心がいれば免れられるとの噂が立ち、小平市域の村々が千人同心株を慌てて買い求めたのは、第二章第八節でみたとおりである。また、遅れて安政五年(一八五八)、さらに小平市域を含む武蔵国・相模国の村々が熊本藩預所に編入された。預所の場合、年貢は幕府へ納めることになるが、人足をはじめとする諸負担を預所の村々に課すことができるため、熊本藩は、海防にともなうさまざまな役負担を小平市域の村々にも課した(『東村山市史』)。
この海防体制再編の中心となったのは、小平市域を支配していた代官江川英龍である。江川は早くより海防体制構築と、そのための種々の改革を献策していたうえに、代官として相模国・武蔵国の村々を支配しており、海防体制を実現するための地理的・経済的条件を調えるのにも、最適の人物だった。海防体制の構築は、品川沖の台場の建造をはじめ、膨大な出費を要するものだった。江川は、この資金を、支配地域の村々から、献金という形で集めようとする。江川は、嘉永六年一〇月、支配地域の村々に対し、組合村を通じて献金を募っている。江川領田無宿組合二〇か村では、この依頼に対し、村内の富裕層が中心となって出金している。献金は以後安政二年(一八五五)迄の三年間継続することが求められ、小平市域の村々では、小川村では三年間合計八四両、大沼田新田では合計一五両二分、廻り田新田では合計一〇両二分五〇匁を出金している(斉藤家文書)。
その後、熊本藩預所時代にも、熊本藩の御備場入用として献金を命じられ、幕領に戻った後も、農兵取り立て、将軍進発(長州戦争)などを名目に、たびたび献金を命じられた。