慶応水滸伝の世界

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図3-44 「慶応水滸伝」
(人間文化研究機構 国文学研究資料館所蔵)

明治一五年(一八八二)、人気作家三世柳亭種彦(りゅうていたねひこ)が、新門辰五郎(しんもんたつごろう)と小金井小次郎(こがねいこじろう)を主人公に、幕末の侠客(きょうかく)の活躍を水滸伝(すいこでん)に模して描いた「落花清風(らっかせいふう) 慶応水滸伝」には、幕末の小平市域の一側面を描いた以下のような記述がある
…小二郎は引き止めて敵の不意を襲はんとならば多勢は却って要なき事なり、此席上に居合す者にて互角の勝負は充分なるべし、疾々支度を調へよと迅速不思議の指揮に従ひ喧嘩の用意をする者は万吉(まんきち)・虎之助(とらのすけ)を首(はじ)め、一宮の政次(いちのみやのまさじ)、戸倉の栄三(とくらのえいぞう)、大丸の留吉(だいまるのとめきち)、二塚の八百蔵(ふたつづかのやおぞう)、小金井竹松(たけまつ)、歩場井の三太(ぶばいのさんた)、大仏(だいぶつ)の平五郎(だいぶつのへいごろう)、渋柿善二(しぶがきぜんじ)、八王子小僧金太郎(きんたろう)、以上一二名僅に一二名おのおの得物を携えて意気揚々と押し出す、時に天保一一年三月廿五日時夜は威の刻を過ぎる頃、敵は小川の幸八(こうはち)方に勢揃(せいぞろい)すと注進(ちゅうしん)ありしかば小川へ向かって襲出す此日は朝より大雨にて咫尺(しせき)の間も分ち難き闇を走りて一条に小川へ往かんとする途に二塚明神(ふたつづかみょうじん)の祠(ほこら)あり…

 これは、小平市域周辺で熾烈(しれつ)な縄張り争いをしていた小川村の幸八(小川の幸八)と、小金井村の小次郎(小金井小次郎)との決戦を描いた場面である。幸八方は、小次郎方に名だたる親分が集まっていることから、そこに夜襲を仕掛けようと計画していたが、それを察知した小次郎は、小金井村から玉川上水沿いを小川村へ向かい、逆に不意打ちを試みた。両勢力が二塚明神で激突し、血みどろの決闘が始まるのである。決戦の場となった二塚明神は、現小平市上水本町にあたり、バス停に「二ツ塚」という名前が残っている。当時鈴木新田(上鈴木)であったこの場所には、幸八方の「田折の与三兵衛(たおりのよそべえ)」という親分がおり、二塚明神で出撃準備を行っていたのである(『小金井小次郎伝』)。
 先述したとおり、一八世紀後半より、小平市域でも博奕が横行し、喧嘩沙汰も起こっていたが、天保年間(一八三〇~四四)にいたり、小川村は、幸八という親分のもとでアウトローの勢力圏の中核となりつつあった。異国船によってもたらされた外患に加え、内憂はさらに深刻の度を深めることになる。