幸八と多摩のアウトロー勢力圏

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江戸時代の人びとは、村の宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)など何らかの籍を持って把握・管理され、幕府や領主の法の規制を受ける。したがって、江戸時代のアウトローとは、籍から抜けて籍の無い状態(無宿)となり、幕府や領主の法にしたがわない人びとを指す。近世後期の小平市域のアウトローのようすを、小川の幸八からみてみたい。幸八の名前は、小川村の宗門人別帳にみつけることが出来る。それによると、幸八は文化元年(一八〇四)に喜八(きはち)の息子として生まれ、決闘のあった天保一一年(一八四〇)には三六歳である(小川家文書)。
 天保六年、幸八は鈴木新田の人びとと騒動を起こしている(史料集一六、一五頁)。この事件について交わされた一札からは、当時のアウトローのようすが克明に浮かび上がる。事件は、天保六年八月四日夜に起こる。同日夜、幸八は小川村や小川新田など近村の若者たちと連れだっていたところ、鈴木新田の村人と「少々の行き違いより事起こり口論に及び」喧嘩になったという。喧嘩の結果、幸八方の誰か(あるいは幸八自身)が鈴木新田へ連れて行かれたため、幸八方は同日未明に大勢で鈴木新田へ行き、相手方を襲撃したというのである。その後、鈴木新田からこの乱暴について訴えがあり、小川村では幸八が詫び状を出して内済して決着している。しかし、内済にいたる過程で、「兼て御改革仰せ渡されの御趣意も御座候処、大勢罷り越し候中には脇指体の品帯び候ものもこれあり」と、幸八方には、文政改革のなかで固く禁止されている脇差体のものを帯びた者がおり、今後の取り締まりのため、支配役所へ訴えるべきだと問題になる。徒党を組んでいたことも改革の趣旨に反する。しかしこの一札では、①申し合わせて徒党を組んで鈴木新田へ行ったわけではなく、鈴木新田へ向かう道中で、たまたま懇意(こんい)の者と逢ったため、合流して大人数になってしまった、②同道した者の中には脇差のようなものを持っていた者がいたが、口論の当事者ではなく、用意して武装したわけでは無い、などと弁解し、若気(わかげ)の至りなので勘弁して欲しいと述べ、以後改心し、「無宿無頼の突き合い」は決してせず、農業に専念すると約束している。「御取締様方お調べの義も今般の義先(ま)つはお聞き捨てにも相成り候趣」と、取締出役による取り調べも、今回の事件については聞き捨てになりそうだとしているので、取締出役に対しては、立件しないとの調整が付いたのかもしれない。この一件の段階で、幸八がどの程度の博徒だったかはわからないが、日常的に近隣の若者と徒党を組み、脇差などを帯び、勢力争いをしていたようすがわかる。こうした振る舞いは、「改革の趣旨」に反するため、村や取締出役も問題としていたが、立件には及ばなかった。その理由が、文面にあるとおり、農業に戻ることを期待してのことなのか、幸八が既に力を付けており、大事にすると村にも危害が加えられるかもしれないほどのものだったからなのかはわからない。しかし、この事件から五年後、冒頭で見た決闘が起こるのである。地理的にみても、天保六年の事件は、小金井小次郎と小川の幸八の勢力が力を増しつつあるなかでの縄張り争いだったとみるべきだろう。