幸八の最期

726 ~ 727 / 868ページ
つぎに幸八が姿を現すのは、決闘ののちの天保一三年(一八四二)八月一四日のことである(史料集一六、四一頁)。この日、支配代官江川英竜の手代が小川村を通行し、名主九一郎(くいちろう)の案内で幸八の屋敷の前を通りかかったところ、大勢の人が集まっていたためようすをみていると、夜に入ってもなお大勢が集まっているため、手代が屋敷に踏み込んだところ、博奕をしている最中だったようで、幸八たちは逃げだし、屋敷には銭やカルタ札が残されていた。幸八はその後しばらく姿を隠すが、幸八と同じ村の組合からは、幸八個人はともかく、一軒ごと退転(たいてん)になってしまっては困るので、幸八家を組で預かり、幸八が帰村したうえは、しっかりと説諭して帰農させたいと名主九一郎に訴え、認められている。これをうけてか、九月三日に、幸八が事件の経緯を弁明している。そこでの事件の経緯はこうである。幸八は生業として「小売酒渡世」を営んでおり、この日は方々から商人がやってきて酒を飲んでいたが、夜に入り、商人たちが売り上げの勘定をはじめた。商人たちの中には紙屑(くず)(反故紙(ほごし))を買っていた者もいたという。当時、紙は高価だったため、使用済みの紙は反故紙として取り引きされ、漉(す)き直して再利用されていた。そして、その買い求めた反故紙の中に、カルタ札も紛れていたというのである。自分たちは改革の趣旨を理解しており、決して博奕を催していたわけではないが、たまたま銭を勘定のために広げており、買い求めた紙屑の中にカルタ札が紛れていたことが、あたかも博奕をしていたように見えてしまったが、決してそのようなことは無いので、穏便に済ませて欲しいと述べている。かなり苦しい言い訳と思われるが、村組からの嘆願も効を奏し、幸八はこの時も処分を免れたようだ。
 しかし、この事件からわずか二か月後の一〇月一八日、幸八はさらなる大事件を起こす。この日、小川村の百姓辰五郎(たつごろう)は、野口村(のぐちむら)(現東村山市)正福寺(しょうふくじ)に行ったところ、幸八と喧嘩になり、疵を負わせられたという(史料集一六、四五頁)。疵は耳の下から鼻の下まで約二一cm、脊柱(せきちゅう)へ九cm、右手親指から手のひらにかけて四cmの三か所あり、代官役所の検視も受けたうえで、辰五郎は二三日に死去してしまった。幸八は事件後行方をくらましていたが、翌一四年になって捕らえられる。幸八の供述によると、事件の顛末(てんまつ)はこうである。辰五郎も博徒であり(小川家文書には辰五郎の博奕などに関する記録もある)、辰五郎方にいた田無村の無宿岩五郎(いわごろう)と、幸八方にいた治助(じすけ)との間で、博奕での金銭の貸借をめぐる口論が起こったという。辰五郎方は所沢村無宿鉄五郎(てつごろう)ら無宿五人を引き連れており、野口村で幸八方と衝突し、結果、辰五郎は疵を負って命を落とした。この事件も、アウトローの博奕をめぐる争いだったわけである。
 捕らえられた幸八は流罪となり、翌一五年(一八四四)、八丈島(現八丈町)へ送られる。八丈島へ送られた幸八は、万延元年一〇月(一八六〇)、同じ流人の利右衛門(りえもん)を中心とする島抜けの一味に加わり、武器を強奪しようとして侵入した名主宅で、名主の父親を包丁で殺害し、最後は逃げ切れず喉(のど)をついて自殺したという(『八丈島流人銘々傳』)。幸八となわばり争いを繰り広げた小金井小次郎も、嘉永二年(一八四九)に捕らえられて三宅島(現三宅村)へ流罪になるが、小次郎は明治元年(一八六八)に大赦で島から戻り、再び多摩地域の顔役となっている(『小金井小次郎伝』)。