幸蔵の登場

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幸八には、幸蔵と梅五郎(うめごろう)(梅次郎・梅吉)という、二人の息子がいた。幸八が捕らえられた際、幸蔵はまだ一一歳だったが、この兄弟が幸八一家を継承し、さらに勢力圏を拡大することになる。幸蔵がはじめて姿を現すのは、安政三年(一八五六)のことである。当時二四歳の幸蔵は、弟梅次郎ら三名と共に捕らえられて手鎖となり、代官江川英龍手附小野鈷太郎(こたろう)に引き渡されている(史料集一六、七四頁)。明治三年(一八七〇)に幸蔵の事歴をまとめた記録によると、安政三年六月一四日、弟梅次郎らと連れだって隣村野口村(現東村山市)天王祭礼に行った幸蔵は、そこで野口村百姓新右衛門(しんえもん)たちに喧嘩を仕掛け、所持の短刀で疵を負わせたという(史料集一六、一〇八頁)。被害者は「血に染め打ち倒れ」「九死(きゅうし)に一生の体」という重傷だった(『里正日誌』)。捕らえられた幸蔵は、小野によって取り調べを受けるが、村からは幸八の時と同様に内済の願いが出される。しかし、この時、「旧悪人殺の始末」の吟味も行われた。というのも、幸蔵は、以前に、叔父の甚蔵(じんぞう)という豆腐屋渡世のものが雇っていた職人を殺害し、玉川上水に投げ込んだ疑惑がかけられており、この追求に窮した幸蔵は、その場から逃げ出して無宿となった。こうして幸蔵は、幸八の段階よりもエスカレートした暴力を行使し、早くも村を出ることになる。こののち、幸蔵は「帳外(ちょうはずれ)」として村の人別を除かれるが、にもかかわらず、幸蔵は小川村に居座り続けたようだ。というのも、幸蔵の悪事を訴えた年未詳の史料では、「永尋ね中当時無宿」の幸蔵が、小川村で茶屋渡世を営んでいたと記されている。しかも、幸蔵の店に立ち寄った力蔵(りきぞう)という村人が酒を飲み卵焼きを食べたところ、翌日、酒代として七五両の請求が来たのである。というのも、力蔵は酔って上等な物を食べたいと注文したので、「異国より渡来の一塩(ひとしお)の卵焼き」を振る舞ったので、卵一つ二五両、二つで五〇両と、その他の酒食代二五両の、計七五両になるというのである。幸蔵の取り立ては厳しく、力蔵は泣く泣く、卵分の五〇両に負けてもらって支払ったという(蛭田廣一「侠客小川の幸蔵と五〇両の玉子焼き」、史料集一六、一〇八頁)。このほか、蓮光寺村(れんこうじむら)(現多摩市)名主富沢家の文久二年正月三〇日の日記には「内藤新田政右衛門(まさえもん)方へ小川村幸八と申すもの子分鈴木村留五郎(とめごろう)と申すもの、其外五六人不法に切り込み」と、幸蔵の子分の鈴木新田留五郎が、内藤新田の政右衛門と抗争しているようすが記録されている(御用留日記帳)。幸八は幸蔵の父の名前だが、幸蔵は幸八一家を継いだと認識されていたのだろう。このほか、小野路村(おのじむら)(現町田市)名主小島為政(こじまためまさ)の日記にも、幸蔵一味と思われる小川村博徒集団と府中宿の博徒が争っている様子が記録されている(高尾善希「博徒「小川の幸蔵」とその時代」)。小川村の御用留にも、僅かではあるがこの間の幸蔵や弟梅次郎の動向が確認できる(『御用留内容目録 小川村 下巻』)。無宿となったのちも、幸蔵は小川村一帯の親分であり続けたのである。

図3-45 幸蔵が無宿になった後の「宗門人別帳」
安政4年(小川家文書)