慶応元年七月頃(一八六五)より、幸蔵の帰住願いが小川新田名主小川準平(おがわじゅんぺい)から出され、同年一二月、幸蔵は小川村へ帰住することになる(小川家文書)。この帰住願いは、田無村下田半兵衛が企図し、準平がとりなしたという。しかし、後述する訴えからは、小川村の村人や村役人と幸蔵との関係が良好だったとは考えられない。にもかかわらず、幸蔵が帰村できたのはなぜだろうか。正確な理由はわからないが、その後の幸蔵の動向から、二つの理由が考えられる。一つは、幸蔵の持つ「武力」である。帰村後、幸蔵は農兵の調練にも立ち会っており、また、慶応二年に勃発する武州一揆では、一揆勢を迎え撃つ武力となっている(第三章第六節)。幸蔵自身が治安悪化の元凶である一方、幸蔵の持つ武力は、地域を護る力ともなり得たのである。無宿中の幸蔵について、小川村御用留のなかに、幸蔵が鴻巣(こうのす)(現埼玉県鴻巣市)に出張中の火付盗賊改のもとへ出向いている記事があり、また帰村直後の幸蔵が、取締出役と関係を持って取り締まりに従事していたことをうかがわせる記述もある(小川家文書)。道案内にはアウトローに連なる者が任じられ、より効果的な取り締まりがされることがあり、幸蔵は、何らかの「御用」を勤めることにより、お尋ね者でありながらも小川村に居続けられたのかもしれない(落合延孝『八州廻りと博徒』)。
もう一つの要因は、幸蔵の顔役としての力である。小川村では慶応二年正月から、市場の再興に取り組む。この動きが本格化するのは、幸蔵が帰村した慶応元年一二月以降のことであり、再興した市場において、幸蔵は行事(ぎょうじ)となって市場を取り仕切っている(史料集一九、三一〇頁)。市場再興の中心となった勝五郎(かつごろう)は、近世後期より台頭した在郷商人であるが(本章第一節)、幸蔵と同じ組であり、幸八・幸蔵と二代にわたって、もめ事があった際に内済となるよう嘆願していた。市場の議定には、村内各組へ市場への出店を強制する内容が含まれており、市を統率すると共に、市へ集まるアウトローから市を守る為にも、幸蔵の持つ顔役としての力が期待されたのであろう。
図3-46 小川村の市場議定
慶応2年正月「(市場再興ニ付取極議定)」(史料集19、p.310)