幸蔵の最期

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こうして公的にも小川村の村人に戻った幸蔵であるが、明治に入ると、その武力を期待されて、韮山県の治安維持の一角を担うようになる。幸蔵は韮山県より「最寄り支配所のうち悪徒共立ち廻り申さざるよう平日心を用い、万一の節は村役人と申し合わせ手配致し召し捕らえべく」と、韮山県管下の周辺地域で悪党が立ち回らないように見廻り、悪党を発見した場合は村役人と協力して捕らえるよう、命じられているのである。「増長致さず様心がけ」と釘を刺されてはいるが、県の公認で取り締まる側となったわけである(高尾善希「博徒「小川の幸蔵」とその時代」、『里正日誌』)。しかし、幸蔵の悪事が止むことはなかった。明治三年(一八七〇)に幸蔵を訴えた史料によると、明治二年(一八六九)、幸蔵は八王子の糸繭商人との間でトラブルを起こして訴えられている。この事件も、実質は幸蔵による強請(ゆすり)だったようで、幸蔵は民部省(みんぶしょう)による吟味のさなかに逃亡し、再び無宿となっている。この頃、小川村では、幸蔵を本格的に排除しようとする動きがあったようである。幸蔵はある面では名主を凌駕(りょうが)するような力を持つに至っており、韮山県の公認までえてしまった。八王子との訴訟でも、実際に訴えたのは小川村の村人のようである(史料集一六、一三五頁)。明治三年、幸蔵を告発する動きが村内からわき上がり(後述)、明治四年、幸蔵は准流(じゅんる)五年の刑を言い渡される。刑の中での幸蔵の罪状は「年来無頼の徒、親分と唱え、長脇指(ながどす)を帯し、博奕を業とし、其外良民え強談(ごうだん)など申し掛け、彼是民害を醸し候」というものであった。まさに、幕府が文政改革で取り締まろうとしていた悪党そのものの姿である。
 その後幸蔵は、遅くとも明治八年には村に戻っている。准流とは、現在でいう懲役刑にあたるが、刑期より早く出所し、同年に「農間旅籠(はたご)渡世鑑札下渡し願い」を、明治一一年には「養犬(ようけん)免許鑑札」願いを出しており、赦免された後も、小川村を拠点に商業活動に勤(いそ)しんでいたようだ(斉藤家文書)。しかし、明治一二年に再び逮捕され、明治一五年まで八王子警察署へ入監し、出所後さらに明治一七年に八王子警察署に刑罰四年の刑で入監中、肋膜(ろくまく)兼肺炎で最期を迎える(『諸家文書目録』)。