アウトローと地域社会

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明治三年(一八七〇)にいたり、小川村の人びとはついに幸蔵と対決することを決意する。村人が幸蔵を訴えた史料には、アウトローが地域にもたらす影響が生々しく述べられている(史料集一六、一五五頁)。明治二・三年頃、「幸蔵身分悪業の始末」を小川村百姓一同が訴えたこの史料によると、幸蔵は「若年の砌(みぎり)より専ら博奕を渡世と致す悪風を好」み、且つ「盗心これ有り平日御法度(はっと)筋相破り候」という者であり、「村方は勿論近村等帯刀公行致し」という、根っからの大悪徒であり、しかも、「数代積悪の家」と、数代にわたって悪党の家柄だという。幸蔵は他の博徒から「かすり」という名目で大金を上納させており、「悪徒の中にても尤(もっと)も頭取」とよばれる親分だった。幸蔵の悪事の手口は多岐にわたるが、手下の者に豪農から押借や盗みをさせ、その金銭を取り上げて僅かな取り分を手下に与え、悪名は手下に着せ、自分は無実であるかのように振る舞っていたという。このほか、酔客を脅して博奕に参加させたり、困窮者からも豪農からも借金をした上で踏み倒し、村からも五・六〇〇両を借りていたが、下手に催促をしたり、役所へ訴えようものなら、のちにどのような復讐をされるかわからないので、ただただ嘆息し、幸蔵を取り締まってくれない「其筋様を御恨み申し上げ奉り」という状態だという。
 また、若者や困窮しているものは、内心では幸蔵を恐れ恨みつつも、しかたがなく幸蔵に従ううちに、「百姓共旧習を捨て悪風に泥(ぬかる)み」と、悪風に馴染(なじ)んでしまい幸蔵の仲間になってしまう。彼らは、もしも幸蔵がいなければ、普通に村人として暮らすことが出来たはずなのに、「自然悪風を見習い候故、追々悪意相きさし、実以村方次三男これ有る者は平日心配罷(まか)り有り」という有様になってしまった。困窮した者や若者が幸蔵のターゲットとなり、いやいやながらも幸蔵に従っているうちに、「悪風に泥」み、これからの村を支えていくはずの人びとが、悪党となってしまうため、次三男を持つ者は、いつ子供が悪党の仲間になってしまうかもしれず、不安な日々を送っているというのである。
 しかも、幸蔵は、明治元年(一八六八)、韮山県から取り締まりを依頼されたことを利用し、手下の悪党はそのまま放置したうえで、普通の百姓は、少しの落ち度でもあれば、謂(い)われの無い名目で捕らえられてしまうかもしれず、「御取締筋」へ加わった幸蔵の脅威はさらに増大しているのである。このように、幸蔵の存在は、村の平和はもとより、普通の村人や若者を強引に仲間に引き入れることにより、村の再生産をも脅かすにいたったのである。明治維新によって朝政(ちょうせい)が一新したこの機会に、幸蔵を捕らえて吟味し、以後、村を立ち回らないよう、罰して欲しいと述べている。文中には、度々、この訴えが露見すれば幸蔵方よりどのような復讐をされるか分からないと記され、訴えた方の名前も記さず、内密に告発を進めている。村を挙げての対決が功を奏したのか、明治四年(一八七一)に処罰されて以降の幸蔵の動向には、それまでのような影響力はみられない。

図3-47 明治3年に幸蔵を訴えた訴状
「(幸蔵御探索御取調之上御咎願)」(史料集16、p.155)

 地域の中で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するアウトローに対し、幸八の段階では、村は幸八を排除する動きをみせない。幸八らの行動が「改革の趣旨」に反していることを認識しつつ、博奕や喧嘩などの悪事が発覚したのちも、村内で内済で済ませるよう動いている。そう動いた理由はわからないが、無宿・潰れ百姓となることを回避することに加え、治安が悪化する中で、村の武力としての期待もあったのであろう。こうした小川村の対応は、「改革の趣旨」を受けた村側の「取締」の実態としても見ることができる。しかし、悪事が殺人にまで及ぶと、村でもかばうことができなかった。幸蔵の段階にいたると、幸八は最初に記録に現れる時点で既に殺人を犯しており、暴力がエスカレートしていることがわかる。幸蔵は法的には村人ではなくなる一方、引き続き小平市域周辺のアウトローの中核であり続け、地域に大きな影響を与え、名主をも凌(しの)ぐ実力を身につける。幸蔵の実力は、武州一揆に際して地域を防衛する武力となり、また市場開設にあたって、市場を統率する威力ともなった。この頃、村人に戻ることも果たしたが、幸蔵の本質が、村の再生産に害をなすものであることには変わりはなかった。体制が明治政府へ変わるなか、ついに村は幸蔵を排除するのである。

図3-48 小川寺に明治29年に建立された「侠客小山幸蔵之碑」