しかし、海防の最大の問題は、幕府の軍隊そのものである。従来の、江戸城など幕府諸施設を警備(番)するための軍隊に加え、海防のためには海岸線に複数の拠点を作り、拠点を結んで海防体制を構築する必要があり、兵の数が決定的に不足しているのである。幕府においてこの難題に取り組んだのが、当時小平市域を支配していた代官、江川太郎左衛門英龍・英敏・英武の三代である。英龍は、この問題の解決のため、百姓を歩兵に組織・訓練して動員する「農兵(のうへい)」の設立を、嘉永年間から数度にわたって献策していたが、農兵は当時の身分制度の原則をおかすものとして採用されなかった。英龍の遺志を継いだ英敏も、文久元年(一八六一)に農兵設立を献策するが、この時も認められなかった。武力を帯び、武力をふるう権利は、苗字帯刀などの武士身分を象徴する権利と一体となって、武士身分を他の身分と区別するものであり、部分的とはいえ、個人ではなく集団にその権利を与えることは、身分制をゆるがす大きな問題だったのである。
図3-49 江川英敏肖像写真
(公益財団法人江川文庫所蔵)
そもそも、海防はもとより、治安維持やアウトローの取り締まりは、幕府や代官-武士の仕事(役)である。しかし、武士だけでは、アウトローに加え、政治犯化した下級武士や浪士達の取り締まりを充分に行えず、地域の自衛力に頼らざるを得なくなっていたのである。例えば、文久二年(一八六二)、取締出役は小平市域の村々へ、毎月のように取り締まりに関する触を出し、同年一二月に出された触では、水戸藩士や新徴組(しんちょうぐみ)と称する浪人たちが、豪農商を襲って金品を強奪しており、攘夷(じょうい)や勅命などと騙(かた)り、百姓を仲間に引き入れようとしているので、今後は、幕領・私領とも申し合わせて、帯刀(たいとう)していても、浪人体で怪しい者は容赦なく召し捕らえ、「手向かいいたし候わば切り殺し候ても打ち殺し候とも致すべく」とまで依頼しているのである(史料集八、一五六頁)。元治元年(一八六四)に入り、天狗党の乱(てんぐとうのらん)や禁門の変が起きると、浪士達の活動はさらにエスカレートするが、幕府は「賊徒(ぞくと)ども金銭押し借り等に罷り越し候は勿論(もちろん)の儀、潜伏徘徊(はいかい)いたし候わば竹鑓(やり)そのほか得物(えもの)を以て、二念なく打ち殺し申すべく候」とまで述べる。百姓や村に対し、怪しい者や犯罪者がいれば捕らえ、手向かいするならば竹鎗などの武器で打ち殺すようにとなりふり構わず触れているようすには、もはや、幕府は百姓の武力に頼らなければ、政治犯の追及までもできなくなっている有様が如実に表されている。
こうした状況のなか、村側の自衛のための武装要求も高まる。3で見たとおり、アウトローによって地域の再生産を脅かされていることに加え、幕府からは、より高度な取り締りを要求されているため、ならばそれにふさわしい武力が必要だ、というわけである。文久三年三月には、下田半兵衛を惣代とする幕領田無村組合二一か村は、「世間何となく騒々しく相成り、この上異国人彼是申し募り万々一御打ち払いにも相成り候様にては自然在々村々へ押し込み、夜盗其外盗賊多相成るべく」と、治安の悪化と対外戦争の危機により、地域に強盗が多発するかもしれず、しかも、強盗たちは「短筒或(あるい)は抜き身を携え申し威し金銭奪い取る義にて」と、強盗たちの武装がエスカレートしていることを指摘し、田無宿組合ではこの事態への対処のため、江川代官所に対し「右盗賊防ぎのため高島流鉄砲拝借願い奉り」と、西洋式の銃一〇〇丁の貸与を願い出ている(史料集八、一五八頁)。村の側でも鉄砲を持たなければ防ぎきれない、というのが拝借願いの理由である。
このように、村々は自衛の為に武装を望み、幕府・代官は、海防や治安維持のために新たな兵力を持つ必要に迫られるなかで、文久三年、農兵制度の試験的な採用が認められる。江川の構想した農兵制度とは「其所(そのところ)の横害(おうがい)予防に相備え置き」と、地域の治安維持のために備える一方、「追って熟達の上は、御用の節に国々遠近に応じ人数割合、何(いず)れへ御呼び上げ相成り候」と、訓練をへて兵として熟達したうえは、「御用」に応じて海防などに動員する、というものであった。江川農兵は、地域と幕府との同床異夢のもとで実現するのである。