代官江川氏による農兵取立は、文久三年(一八六三)一〇月、江川支配所に限り認められ、江川支配の各地では、同年一一月ごろから農兵取り立てが開始された。江川家は英敏が文久二年(一八六二)に急逝してしまったため、弟の英武(ひでたけ)に代替わりしている。英龍から三代目である。農兵は村高一〇〇石につき一人の割合で取り立てられ、幕領組合村が○○組合村農兵という形で編成された。総兵力は武蔵・相模一五組合で四五一名(一八六三年)、江川代官領全体で一一〇〇名(一八六五年)に及んだという(『田無市史』)。
江川代官所は、農兵取り立ての趣旨を、徳川家康以来三〇〇年間にわたる、日本や中国の歴史にも例の無い平和を享受してきたが、これからどのような異変があるやもしれないので、有事に備えて、「宿村の憂患を未然に御防」ぐため、村高や人口に応じて、壮年・強壮のものを農兵に取り立てると説明している(「里正日誌)。「上は国家の御ため、下は宿村難なく産業し、子孫繁栄の基本たるをとくと弁別憤発いたし」と、上は国家のため、下は宿村のために、農兵となって奮発・勉励するべし、というのである。献金では、身分に応じた負担(武士は戦闘、百姓は献金)が求められたが、さらに、身分を越えて「兵」となることが、三〇〇年の平和な治世という「国恩の冥加」に報い、国と地域のためになるというのが動員の論理である。
ただし、身分の問題が解消したわけではなく、「自然農兵勤め中御扱い振り等違い候とも、元来の身分相わきまえ謙遜専一相心得」と、農兵になっている間は、身分の取り扱いなどに変化が生じるが、あくまで百姓であるという元来の身分をわきまえて、謙遜していることが大事であるとし、理想的な農兵として「謹慎にして業前出精のもの」と、武芸に秀でていても慎み深いものを挙げ、こうした農兵は褒美を与えるとする一方、「放縦堕弱」「良民の害に相なり候もの」と、だらしなく、普通の人びとの害になるような者は厳重に処罰すると述べている。
江川は、農兵は有事および調練時には、隊長は苗字帯刀、平農兵も苗字二刀を許可することで、身分をこえた動員を、一時的な武士身分状態の許可で折り合いをつけようとしていた。農兵は武士同様に苗字を名乗り、隊長は大小の刀、平農兵も脇差を帯びることを許されたのである。つまり、農兵として勤めている間は、戦闘員たる武士身分と同様の待遇が許されたわけである。布達では、このような特別待遇があっても、基本的な身分はあくまで百姓であり、その本分を忘れずに、謙虚にするよう命じる。いずれにせよ一時的に一定の特権を認めることで、かろうじて既存の身分制度との折り合いを付けていたわけである。
また、田無宿組合における農兵取り立ては、田無宿組合惣代の下田半兵衛(しもだはんべえ)があたることになり、江川代官所の手代の柏木(かしわぎ)・三浦は、文久三年二月、田無村に出張して農兵の組織編成を指導するが、この時、所沢組合惣代の上新井村(かみあらいむら)名主市右衛門(いちえもん)と蔵敷村組合惣代の蔵敷村名主杢左衛門を田無村へ内密に呼び出し、農兵取り立てにあたっての心構えを説いた(『田無市史』)。曰(いわ)く、この農兵取り立ては先々代江川英龍が外寇を憂いて献策し続けたものであり、さらに先代の英敏が文久元年にあらためて献策したことが、今回漸く認められたものであるとの経緯が示され、江川家三代と江川支配の村々とは「御料所一体(ごりょうしょいったい)」なので、先代・先々代の遺志(いし)を汲(く)んでより積極的にこの問題に取り組むべきというのである。江川代官所は、農兵の実現にあたり、農兵への積極的な参加を引き出すために、地域指導層と密接に連携していたことがわかる。