小平市域の農兵の概要

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 文久三年二月(一八六三)に組織された田無宿組合農兵の名簿が、表3-17①である。小平市域では、小川村・小川新田・野中新田両組・大沼田新田・廻り田新田が江川支配になるため、この六か村から、一七名の農兵が取り立てられている。農兵は①一般農兵と②幹部農兵の二階層に編成されていることが、この名簿からわかる(『田無市史 通史編』)。一般農兵の中核を為すのは組頭層と百姓層であり、百姓層は在郷商人として高持ちになったのが中心である。一方、幹部農兵の中核は名主層であり、すべて、名主・組頭層から構成される(表3-17②)。農兵には「身元宜敷」ものを任じるという条件があったが、それを反映して、村々の役人層や有力者層(の子弟)が農兵を担っていたのである。また、これらの農兵となった家々は、第二章第八節でもみたとおり、身上がり願望を強く持つ階層でもあったため、一時的とはいえ武士となることができる農兵には、率先して応じたのだと思われる。
表3-17① 文久3年11月 田無村組合農兵一覧
村名村高現市町村農兵年齢身分持ち高
①一般農兵
中清戸村397石清瀬市竜松18名主倅14.8石余
孫右衛門33百姓4.35石余
上清戸村203石清瀬市金次郎23百姓倅8.1石余
下清戸村375石清瀬市友吉30百姓2.383石余
万吉23百姓倅12.2石余
野中新田善左衛門組369石小平市藤右衛門34年寄6石余
小山村380石東久留米市源次郎30組頭倅17.585石
下里村501石東久留米市代八24組頭倅14石余
留蔵22百姓代倅17.8石余
野中新田与右衛門組466石小平市幸作29組頭1.9石
小左衛門倅
榎戸新田247石国分寺市元右衛門27年寄33.8石余
徳次郎32組頭倅5.89石余
柳窪村102石東久留米市七郎右衛門29名主12石余
柳窪新田130石東久留米市惣七21名主18.4石余
清戸下宿189石清瀬市卯兵衛27百姓倅6.328石
小川村672石小平市冨蔵32組頭半蔵倅3.223石
芳太郎23組頭徳次郎倅2.327石
惣蔵25百姓鶴蔵倅17.773石
佐十郎19百姓佐五右衛門倅6.429石
健蔵22百姓左右衛門倅9.635石
田無村1484石西東京市米吉26組頭倅12.239石
藤右衛門42組頭6.621石
勘次郎23組頭倅6.855石
清兵衛22組頭倅14.521石
平左衛門45百姓代46.728石
②幹部農兵
田無村1484石西東京市三右衛門22名主見習190石余
小川村672石小平市小四郎16名主九一郎倅
弥右衛門31組頭4.436石
小川新田676石小平市弥次郎19名主弥一郎倅15.7石余
梅次郎26組頭源左衛門倅23石余
八太郎15組頭八左衛門倅16石余
野中新田与右衛門組466石小平市幸蔵44名主定右衛門弟14.6石余
大沼田新田320石小平市桂次郎19名主弥左衛門倅103.2石余
野中新田六左衛門組306石国分寺市宗三郎17名主倅26.53石
平蔵41組頭14.3石余
小山村380石東久留米市郷右衛門41名主14.467石
野中新田善左衛門組369石小平市柳助14名主善左衛門弟5.6石余
廻り田新田107石小平市輔九郎18名主忠助倅11.56石
     小平市域の村
下田家文書「農兵取立ニ付田無村組合村村人数其外書上帳」、『田無市史』第3巻通史編をもとに、適宜、小川家文書などで補って作成。

表3-17② 田無村組合農兵階層構成
名主321
名主倅・見習・弟918
組頭312
組頭倅・弟1192
百姓代11
百姓代倅11
年寄22
百姓22
百姓倅66
382513

 
 蔵敷村名主内野杢左衛門の残した「里正日誌」に掲載された「農兵隊伍仕法写」によると、農兵は、二五人で一小隊を組み、うち五人は懸役人を勤める。懸役人は、隊頭取・同並・什兵(じゅうへい)組頭二名と差引役であり、小頭一人と平隊士四名の五名からなる伍卒(ごそつ)組が四つ、その配下に付けられた。小隊頭取と同並は隊の取締である。差し引き役は目付役(監察役)であり、小隊の兵卒の行跡を監視する。什兵組頭は配下の伍卒組を管轄し、問題があれば頭取や差引役に報告する。伍卒組は農兵隊の基礎となる組織で、万事相談し、親類兄弟のように仲睦まじくするよう命じられている。
 

 また、農兵の取り立てにかかる経費には、村々からの献金が宛てられることになったため、小平市域の村々でも「農兵取り立てに付き御入用」として献金が行われた。残された記録では、大沼田新田からは、文久三年一一月に三〇両、翌元治元年一二月(一八六四)には一五両が、廻り田新田では元治元年に二両二分が、小川村では元治元年・慶応元年(一八六五)に五〇両ずつ、江川役所に献金されている。献金したのは村内の富裕層で、例えば文久三年の大沼田新田の場合、名主弥左衛門の一〇両を筆頭に、計一五名が一両から一〇両を献金している。献金の理由は「今般農兵取り立てに付き、冥加として」というものである(『東村山市史8』資料編近世2、八五一頁)。「冥加」の文意は難しいところだが、農兵として取り立てるので、その代わりに金銭を負担せよ、という論理と読め、農兵取り立ては村の(あるいは富裕層の)ための施策でもあるとの方針が示されている。
図3-50
図3-50 農兵組織図
「里正日誌」(内野秀治氏所蔵)