農兵の訓練と自意識

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農兵へは代官所から小銃と胴乱(どうらん)(火薬・弾丸を入れる入れ物)・管入(かんいれ)(笛入れ)が貸与される一方、農兵用の胴服(どうふく)や立付(たっつけ)などの服装は各自が用意すべきものとされた。小川村では、農兵の装備にかかる費用は村全体で負担したようで、例えば慶応二年には、「農兵人稽古着(けいこぎ)代」として二貫六二文五分が計上され、反別割りで割り付けられている(小川家文書)。また、農兵に貸与された鉄砲については、明治期の記録によると(斉藤家文書、3章6節コラム)、文久三年に農兵に取り立てられ、農兵のために献金をしたことを受けて、元治二年(一八六五)にゲベール銃を貸与されたという。この時、小川村に五挺、小川新田に三挺、廻り田新田には一挺のゲベール銃が貸与されている。
 田無宿組合では、農兵の訓練は元治二年三月一四日よりはじまった。稽古に先立つ一〇日、惣代下田半兵衛より、文久三年にリストアップした農兵達は一四日の午前八時に田無村の調練場にくるよう通達があり、また、すでに注文していた稽古着代金が、一人銀五〇匁ずつであることが告げられる(史料集八、二〇九頁)。小川村では、名主九一郎悴小四郎など七名が、稽古着代金と弁当持参で田無村へ向かっている(小川家文書)。以後の農兵の調練のようすはよくわからないが、小川家や斉藤家に残された御用留には、農兵人が稽古に参加しているようすが、断片的に記録されている。同年六月には、江川代官所農兵取立御用として、増山健次郎・岩崎廉平が稽古にやってきている。斉藤家文書には「斉藤氏扣 慶応元乙丑年六月謄写 規則書・申渡書・火入稽古致し候者心得方」とする史料が残されており、おそらくこの時に増山・岩崎から示された、農兵としての規則、鉄砲を取り扱ううえでの心得、申し渡されたことを書き留めたのであろう(斉藤家文書・口絵17)。この稽古の後、同年七月には、田無宿組合での稽古を、以後、毎月一と六の付く日に田無村で行うことに決まる(小川家文書)。
 翌慶応二年正月一五日には、江川代官所手代の増山健次郎が、田無宿で農兵の鉄砲稽古見分を行っている。廻り田新田名主倅の斉藤輔九郎(のち忠輔)は、この時期の農兵の訓練の記録を「慶応二丙寅年正月吉旦 農兵出席扣」として残しており、そこから、農兵となった村人のようすを垣間みることができる(斉藤家文書)。
 この記録によると、当時、田無宿組合での農兵の訓練は、毎月五日・二五日に田無村で、一五日に小川村で行われていた。正月一五日の増山の見分を受けてか、同年二月二七日には、江川代官所の農兵教示方森田留蔵が田無村に出張し、隣組合の蔵敷組合とともに、本格的な稽古を行っている。この稽古では、農兵として名前を登録している者、銃を拝借している者は、必ず出席することが命じられている。また、「出席札」の持参が命じられていることから、農兵の出席は剣術道場のように、札で確認されていたことがわかる(小川家文書)。

図3-51 「農兵出席控」慶応2年正月(斉藤家文書)

 森田の稽古は厳しく、輔九郎の記録によると、二月二八日以降、三月二一日まで、休日の二日間と雨天の三月一七日を除き、連日稽古が行われた。輔九郎は、二日間病気で欠席したものの、残りの稽古には参加している。二二日以降は日常的な訓練も蔵敷組合と合同で行うこととなり、毎月、四・二四日は田無村で、九・一九日は小川村で、一四・二九日は蔵敷村で稽古を行うことと決まっている。
 輔九郎の記録には、稽古の方法も記録されている。稽古にはミニイ(ミニエー)銃を用い、「肩え銃」「荷へ銃」「捧ケ銃」などのかけ声と、「肩ヘツツ」「其マヽ休メ」などの動作が記される。また「十二段込ヘ銃 一二三」のように、動作のテンポが記され、銃鎗で「前ヘ飛ワラヅキ右ヲ穿ケ裏表中段前ヲ穿ケ進メ後え飛右ヘサケ左ヘサケ表裏上段前ヲ穿ケ進メ」のように戦闘訓練をしていたことが記されている。記録からは、銃鎗を用いた訓練に重きが置かれていたことがわかる。輔九郎は、この記録に「農兵 斉藤輔九郎 藤原義光」と裏書きしており、この農兵としての訓練が、輔九郎の身分意識や地域リーダーとしての意識に大きく働きかけていたことがみてとれる。
 こうして、村人達は、郷土を防衛するという目的のもと「兵」となり、戦場へ赴くのである(第三章第六節)。