幕府は、農兵を地域の治安維持や海防に動員し、不足する兵力を補おうとしたが、農兵はあくまで日常的には村の百姓であり、幕府が自由に動員できるわけではない。幕府本体の西洋式陸軍(歩騎砲)化に向けた旧来の幕府軍事組織の改編は、まだその途上であった。とくに問題となったのは、歩兵・銃卒をどう調達するかという問題で、従来戦闘要員ではなかった御城坊主などを歩兵にあて、千人同心を再編するなどして歩兵の調達と訓練を行う。幕府の歩兵調達において、もう一つの方法として採用されたのが、旗本兵賦(へいふ)である。旗本は、従来の軍役規定では、石高に応じて、自身を中心とした軍団を編成しなければならなかったが、この旗本当主以外の人員を、当主から切り離して集め、歩兵として再編するというのが旗本兵賦である。これにより、旗本は石高に応じて、歩兵となる人員=兵賦を差し出すことになった。家臣から切り離された旗本当主自身は士官としての訓練を受ける一方、兵賦人たちは歩兵・銃卒としての訓練を受けるわけである。しかし、兵賦は旗本家臣よりもむしろ旗本の知行所への役負担として課されたため、百姓からいきなり歩兵となって戦場へ送られることに対し、旗本領では兵賦の忌避運動が巻き起こった(熊沢徹「幕末の軍制改革と兵賦徴発」)。
この兵賦を幕府直轄領にも適用したのが、幕領兵賦である。慶応元年五月(一八六五)、村高一〇〇〇石につき一人の割合で、関東の幕府領に兵賦の供出が命じられた。江川代官所からの兵賦取り立ての趣旨は、御進発(長州戦争)のため、幕府の兵隊は残らず進発してしまい、江戸の警備は手薄になるので、兵賦を取り立てたい、というもので、農兵とは別に、一七歳以上四五歳までの身体強壮の者を、一〇〇〇石につき一人、一〇〇〇石未満の村では、最寄りの幕領組合村で調整の上で差し出すことが命じられた(史料集八、二一七頁)。田無宿組合では、大急ぎで兵賦人の該当者の調査が行われ、翌閏五月、小川村百姓弟清吉以下七名を兵賦人とすることを申請している(『田無市史』)。しかし、兵賦は、一時的に農から兵となることでは農兵とも共通するが、農兵が郷土防衛の役割を担い、日常的には村人であることに変わりはないのに対し、兵賦は、村から切り離されて歩兵としての訓練を受けさせられ、さらに戦場で戦闘や死の可能性まであるため、兵賦の選定は困難を極めた。そのため、田無村名主下田半兵衛と野中新田名主善左衛門は、兵賦を金納にしたいと嘆願している(『田無市史』)。江川代官所からは、「外御代官への響き」もあるので、半分は人を出し、残りは金納にせよとの返答があった(史料集八、二一八頁)。幕府はあくまで人員を集めることによって陸軍を編成しようとしており、すべて金納にすることは認められなかったが、間で兵賦を取り立てる代官も、既に農兵を編成していることから、さらなる兵賦の取り立ては困難であるとの判断から、とりあえず、半分の金納を認めることで、折り合いを付けたのだろう。
田無村組合では、規定の七人(田無村組合総計七五七四石)に対し、半分の三人(小川村清吉・田無村十五郎・下里村新右衛門)が兵賦として取り立てられた。兵賦に対しては、組合村から経費や給金が支払われた。その決まりを記した「兵賦人共御給金并御仕法立御受書写」によれば、規定では、兵賦人の給金は年一〇両であるが、それに加え、組合村から三〇両が支払われている(斉藤家文書)。組合村からの加算分を増給金というが、そうでもしないと、村を離れ、命の危険もともなう兵賦になる者をみつけるのは難しかったのである。
こうして集められた兵賦人たちは、歩兵屯所で訓練を受け、幕府歩兵となって各地を転戦して行くのである。