幕末の京都を舞台に活躍した多摩出身の志士に、近藤勇がいる。近藤は上石原村(現調布市)の宮川家の三男に生まれ、天然理心流近藤家の養子・四代目となり、土方歳三らの同士と浪士組の一員として上京し、新選組として政治活動・治安維持活動に奔走する。近藤の肉親には、小平市域の村人が二人いる。一人は、享和二年(一八〇二)に廻り田新田山田家の三女として生まれた「ゑい」という女性である。ゑいの名前は、文化元年の廻り田新田の宗門人別帳に「々(娘) ゑい 年三才」のようにみえ、文化一三年以降は江戸へ奉公に出たようだ。そして、文政一〇年(一八二七)にゑいは嫁いだと考えられるが、その嫁ぎ先こそ、上石原村の宮川家である。宮川家に嫁いだゑい(宮川家ではみよ)は、音五郎、粂次郎(粂蔵)、勝五郎の三人の男子を授かる。この勝五郎こそ、のちの新選組局長、近藤勇である。しかしゑいは、勝五郎がまだわずか六才の天保一〇年正月に、三八才の若さで亡くなってしまう。
母を失ったのちも勝五郎は着実に成長し、嘉永元年(一八四八)には二人の兄とともに、江戸市ヶ谷試衛道場を中心に多摩地域に勢力を伸ばしていた天然理心流に入門する。めきめきと頭角をあらわした勝五郎は、天然理心流宗家近藤家三代目近藤周助の養子となる。その後の活躍は、周知の通りである。
ゑいの授かった三人の男子のうち、長男音五郎は宮川家の跡取りとなり、三男勝五郎は近藤勇となって天然理心流を継承する。では、もう一人の男子である粂次郎はどうなったのだろうか。
安政元年二月(一八五四)、小平市域の野中新田善左衛門組と上石原村との間で一つの縁談がまとまる。野中新田善左衛門組佐藤家のふくの元へ、近藤勇の兄宮川粂次郎が婿入りしてきたのである。仲介したのは母の実家山田家だった。佐藤家は「油屋佐藤」と呼ばれる有数の在郷商人で、宮川家は一〇〇両もの持参金を用意し、名前も粂次郎から佐藤家の通字「宗」を承けて宗(惣)兵衛へと改めることになった。惣兵衛は、一一五石の身代からなる農間質物油絞り糠灰等商渡世に就き、翌安政二年二月にはふくとの間に女子を授かるなど、順調な婚姻生活を送っていた。しかし、結婚からわずか一年、佐藤家の巨大な身代をめぐって、泥沼の離縁騒動が持ち上がる。惣兵衛側の嘆願書によると、隣村野中新田六左衛門組名主六左衛門が、佐藤家への借金を帳消にしたうえ佐藤家の財産を手に入れようと、惣兵衛を追い出して息子を後釜に据えることを企み、惣兵衛の義母なおに惣兵衛の悪い噂を吹き込み、離縁を訴えさせたというのである。惣兵衛は関東取締出役や支配代官江川氏の取り調べまで受け、疑いはすぐに晴れたものの、離縁はやむを得ない事態にいたった。こうして、失意の惣兵衛は生家の宮川家に戻ることになった。
実家宮川家に戻った惣兵衛は、今度は幕末政局の片隅に登場することになる。弟勝五郎はやがて新選組局長となって京都を舞台に活動するが、惣兵衛は兄音五郎とともに、新選組の後援者となって連絡を取りあう一方、勇不在の江戸近藤家の世話をしている。また、多摩地域に残された史料には、惣兵衛が時折京都へ赴き、禁門の変や池田屋事件、新選組や新選組の属した一会桑(一橋・会津・桑名)勢力の動向を、生々しく伝えているようすが残されている。また近藤から二人の兄にあてた書簡からは、京都で政争の最中にあるなか、実の兄弟には家族の世話を依頼するなど、実の兄弟ならではのより親密な関係が垣間みえる。惣兵衛は、京都で活躍する弟と、多摩にいる仲間たちとの間をつなぐパイプとなったのである。