慶応二年(一八六六)六月に起こった武州世直し一揆の余塵(よじん)がくすぶる九月一二日、小平市域の村が含まれているわけではないが、同じ武蔵野新田に属する関前村・同新田(現武蔵野市)の名主忠左衛門が、北野村など二〇か村の「小前村役人惣代」として、所轄の幕府代官今川要作(ようさく)に対して「肥代金拝借願書(こえだいきんはいしゃくがんしょ)」を提出している(『武蔵野市史 資料編』)。この嘆願書のなかで、まず自分たちの村は、武蔵野新田とその新田続きの村々なので、土地の生産力が低く特別に肥料を入れないと諸作物が収納できないという窮状(きゅうじょう)を述べる。そして、こうした生産力の低い土地に適した肥料として、糠(ぬか)・灰・〆粕(しめかす)・干鰯(ほしか)・麸(ふすま)・種絞粕(たねしぼりかす)・鳥糞(ちょうふん)などを用いてきた。これらは、いずれも購入しなければならないのだが、値段が近来高騰(こうとう)して一〇倍もの値段になったため、とうてい自力では購入できない。そこで、秋に麦の種を蒔くときに必要な肥料の購入代金を貸してほしいというのである。
この嘆願は結局聞き届けられなかったのだが、ここではこのような窮状が生まれた理由に注目してみよう。まず、慶応二年は夏から雨天がちで寒い日が続き、諸作物のできが悪かった。そのうえ近年は、伝馬(てんま)(幕府役人などが公用で出張するときにその荷物も含めて運ぶための人馬を提供すること)を頻繁に命じられた。しかも、そのほかの幕府の御用や村の用事のために夫役(ぶやく)人馬が徴発される機会も増えた。さらに、兵賦(へいふ)といって、幕府が長州戦争遂行のために当初幕府の直轄地に課した軍事夫役人足までもが課された(第三章第五節)。このうち、とくに遠方に人馬を出すときには、実際に村から人や馬を出すわけではなく賃銭で雇うようになっていたので、近年物価が高くなるにつれてその賃金や兵賦の給料までもが高騰(こうとう)するようになり、結果的にはこうした人馬提供を命じられた村の経費(村入用)が増えることになった。この村入用は当然村人の負担になるから、この二〇か村の村々の百姓の七〇%はとても疲弊して、その日の食事など生活にも窮するようになり、「退転(たいてん)」(破産)する者も出てきそうな状況である。また、六月の「一円(いちえん)に徒党(ととう)の者所々乱妨(しょしょらんぼう)」(=武州世直し一揆)の影響で、それ以来一切の「融通(ゆうずう)」(金銭を貸し借りすること)も止まってしまったために、個人で借金をして肥料を買うことさえできない。このように慶応二年は、たしかに凶作に加えて一揆も起こったために、窮乏がいっそう進んだのだが、その背景には伝馬をはじめとする御用人馬の賦課が急速に増えるという事態があったのである。
幕末から維新期にかけて小平市域の村々が置かれていた政治的・経済的状況を考えるとき、この地域の畑作にとって不可欠な肥料の代金が高騰したうえ、助郷役(すけごうやく)という、本来武蔵野新田村々には免除されてきた交通・運送の役負担が課されるようになってきたことに注意しておく必要がある(「助合」と表現するときもある)。