一此の村道中附(どうちゅうづき)にては御座(ござ)なく候、助郷・定助郷(じょうすけごう)など仕(つか)まつらず候、当所の儀は山中往還筋(さんちゅうおうかんすじ)ならびに玉川御上水御用(たまがわごじょうすいごよう)そのほか諸御用につき田無村・府中宿・日野村・羽村・箱根ヶ崎村・所沢村・清戸村右七か所の御伝馬継(おてんまつぎ)相勤め申し候、此のほか近(ちかき)村々へ人馬継ぎ候(史料集一、五二頁)
図3-52 近世交通概略図 |
近世には、幕府は東海道などの五街道や主な街道(道中(どうちゅう)とも呼ぶ)での公的な交通の便をはかるために、人や荷物を迅速に運ぶための人馬の手配をする宿場(しゅくば)を設定するとともに、規模の大きな通行で宿場の人馬では不足するときに人馬を提供する助郷役を近隣の村々に課していた。ある宿場に人馬を提供する村々は決められていたのでこれを「定助」(郷が省略されている)とよび、とくに大きな通行のときに限り人馬を提供する「大助郷」あるいはさらに臨時の負担をする「加助郷(かすけごう)」の村々が決められることもあった。この史料で、小川村がまず主張するのは、こうした助郷村ではないということである。しかし、当初から甲州街道の脇往還(わきおうかん)の要地(継場)であり、日野本郷宿との関係では岩槻往還の「継場」でもあった(ここでは両方を「山中往還」山中を通る道路)。そこで、ここを通行する幕府役人およびその荷物の運送のために府中宿(現府中市)・日野本郷宿(現日野市)へ、また玉川上水の御用のために出張してくる幕府役人およびその荷物を運送するために、田無村(現西東京市)・箱根ヶ崎村(現瑞穂町)・所沢村(現埼玉県所沢市)・清戸村(現清瀬市)・羽村(現羽村市)の七か所へ、必要な人馬をそろえて継ぎ送る役を負担してきたことは認めるのである(七か所への「継場」)。また、近い村々までならば、人や物を運ぶための人馬も提供してきたとする。なお、こののち、安政四年(一八五七)の「村差出明細帳」(史料集一、七〇頁)では、継ぎ送り先は、砂川村(現立川市)と拝島村(現昭島市)が加わり、九か所になっている。この範囲で公用人馬を提供をすることは、少なくともこの年には一二二五人の人口と四二匹の馬を有し、男は農閑期(のうかんき)には江戸府内へ炭や薪を馬で運んで賃銭を得ていた小川村の人びとは、幕府に対して果たすべき役割だと自覚していたことになる。実際に、小川村には馬の手配をする「馬指(うまさし)」がおり、いくつかに分かれた村内の馬持ちたちの組ごとに伝馬として提供する順番を決めており、総経費を村で割り合っている(たとえば史料集三〇、二五五~二五九頁)。もっとも、廻り田新田でも、鷹場の御用も含め、公用の通行に対しては伝馬役を勤めていることが確認できる。実際に村から出て運送の役を勤めた人に対して村が支払う賃金を、たとえば近くの鈴木新田や是政新田までならば銭一六文、大沼田新田などまでならば三二文という具合に行き先ごとに決めている。その規準も物価や他の賃銭の上昇に応じて改訂しており、毎年総額を村入用に入れて計算し、村人の持高に応じて割りかけ、徴収している(史料集三〇、三四三~三四九頁)。
これ以外の小平市域の村は、たとえば鈴木新田が「助郷相勤め候義御座なく候(すけごうあいつとめそうろうぎござなくそうろう)」(史料集一、一三一頁)と述べ、廻り田新田が「定助(じょうすけ)・大助共武蔵野新田(おおすけともむさしのしんでん)の内(うち)は仕らず候(つかまつらずそうろう)」(史料集一、一六七頁)と述べているように、武蔵野新田の村々は定助郷も大助郷も勤めたことはないとしている。武蔵野新田村々は、実質的に限られた範囲での「伝馬役」を負担してきた事が確認できる小川村や廻り田新田をもふくめ、助郷役は免除されてきたという権利を強く主張してきたのである。
しかし、主要な街道の宿場や助郷村々で、交通量が増え、常時人馬を用意することができなくなると、この助郷役免除という武蔵野新田村々の権利を維持することがむずかしくなる。まずは、将軍が日光に社参するときなどのように、膨大な人馬を必要とする大通行のときに、武蔵野新田村々にも特別に負担が要請されている。表3-18は、小平市域関連の「助郷年表」である。安永五年(一七七六)四月には、一〇代将軍家治(いえはる)日光社参のために岩槻宿に設定した矢来(やらい)(竹などでつくった一種の柵で囲いこんだ場所)に詰めるようにという伝馬人足動員令が出されている。このときは、一〇〇〇石につき馬六匹・人足九人の割合で、組合村単位に計算して、負担すべき数字を割り出すように命じられた。これに対して小川村は、「日光 御社参(ごしゃさん)に付き御用人馬御免願い」のために正月一二日には伊奈半左衛門役所に出頭しており、「当村方(とうむらかた)は伝馬継村方(てんまつぎむらかた)に御座候に付き先規の通り人馬御免成し下され候様」嘆願した。従来の主張通り、小川村は伝馬というかたちでの人馬は出すが、助郷での人馬の提供は免除されてきたことを繰り返すのである。しかし、伊奈役所から、「古来」はそうだったかもしれないが、今回は宿場に順じた扱いをとることになっているので、確実な証拠がなくては免除(「御免(ごめん)」)にはできないといわれ、正徳元年(一七一一)五月の甲州道中日野宿の高札の写しを証拠として提出している。この日野宿に掲げられている高札には、近隣の宿に「継合」というかたちで人馬の提供をしてきたことだけが記されていたのである。しかし、結果的には免除されず、たとえば廻り田新田では、その経費を小前たちに、持高一石につき一三五文ずつ負担させている。天保一四年(一八四三)の将軍家慶(いえよし)の日光社参のときも同様で、結果的に小川村や廻り田新田は負担をしている。
表3-18 小平市域関連助郷年表 | ||||
西暦 | 年代 | 目的 | 小平市域の参加村 | |
1 | 1776 | 安永5年 | 日光社参 | 小川村、廻り田新田 |
2 | 1805 | 文化2年 | 上板橋村助郷差村免除願 | 大沼田新田、野中新田 |
3 | 1824 | 文政7年 | 下飛田給村代助郷 | 小川村 |
4 | 1825 | 文政8年 | 下石原宿助郷 | 小川村 |
5 | 1826 | 文政9年 | 下飛田給村代助郷 | 小川村 |
6 | 1828 | 文政11年 | 下石原宿助郷 | 小川村 |
7 | 1829 | 文政12年 | 下石原宿助郷 | 小川村 |
8 | 1830 | 文政13年 | 下石原宿助郷 | 小川村 |
9 | 1833 | 天保4年 | 下飛田給村代助郷 | 小川村 |
10 | 1837 | 天保8年 | 下飛田給村代助郷 | 小川村 |
11 | 1838 | 天保9年 | 下飛田給村代助郷 | 小川村 |
12 | 1839 | 天保10年 | 下飛田給村代助郷 | 小川村 |
13 | 1840 | 天保11年 | 下飛田給村代助郷 | 小川村 |
14 | 1843 | 天保14年 | 日光社参 | 小川村 |
15 | 1844 | 天保15年 | 下石原宿代助郷免除願 | 小川村 |
16 | 1850 | 嘉永3年 | 日光法事加助郷免除願 | 廻り田新田、小川村 |
17 | 1861 | 文久元年 | 府中宿助郷差村免除願 | 武蔵野新田 |
18 | 和宮下向助郷 | 大沼田新田、廻り田新田 | ||
19 | 1863 | 文久3年 | 浦和宿当分助郷免除願 | 小川村、廻り田新田、鈴木新田 |
20 | 浦和宿当分助郷 | 小川村 | ||
21 | 上板橋村当分助郷免除願 | 小川村、小川新田 | ||
22 | 1864 | 元治元年 | 内藤新宿代助郷免除願 | 廻り田新田、小川新田、大沼田新田、野中新田、野中新田三組、鈴木新田 |
23 | 1865 | 慶応元年 | 品川宿当分助郷 | 廻り田新田 |
24 | 品川宿当分助郷免除願 | 小川村、鈴木新田、廻り田新田、大沼田新田 | ||
25 | 1866 | 慶応2年 | 品川宿当分助郷免除願 | 廻り田新田、大沼田新田、小川村 |
26 | 1867 | 慶応3年 | 品川宿当分助郷免除願 | 小川村、小川新田 |
27 | 1868 | 慶応4年 | 府中宿当分助郷 | 廻り田新田 |
28 | 田無村当分助郷 | 廻り田新田 | ||
29 | 明治元年 | 品川宿助郷 | 小川村、廻り田新田 | |
30 | 品川宿当分助郷免除願 | 小川村 | ||
31 | 1869 | 明治2年 | 川崎宿助郷免除願 | 武蔵野新田 |
32 | 神奈川宿助郷 | 小川村 | ||
33 | 神奈川宿附属助郷免除願 | 小川新田、野中新田、小川村、大沼田新田、 | ||
34 | 1870 | 明治3年 | 神奈川宿助郷 | 小川村、野中新田善左衛門組 |
史料集30より作成。 |
もっとも、小川村は、文政七年(一八二四)以来二〇年間という約束で、甲州道中下石原宿(現調布市)からの代助郷(だいすけごう)要請にも応じてきた。これは下石原宿自体の助郷を代行するというのではなく、下石原宿の人びとが開発したが村としては独立していない(下石原宿の「持ち添え」)下飛田給村(しもとびたきゅうむら)(現調布市)の分の助郷役を勤めるというものだった。下飛田給村は、困窮しているうえ、実際には人が住んでいないという状態なので(「無民家(むみんか)」)助郷負担に耐えないというのである。天保一四年の日光社参に際して役を勤めたことを踏まえ、翌年にはこの代助郷は免除してくれるように道中奉行所に嘆願している(史料集三〇、三三九~三四二頁)。この結果を示す史料はないが、聞き届けられたものと思われるが、それまでは毎年下飛田給村が負担すべき助郷勤高(助郷役負担をするべき石高)七〇石に対してかかってきた人馬の分の「雇替賃銀」を支払っており、このように遠方への助郷役負担は、村外の人馬に賃銀を払うことで代替してもらっている。
このように助郷役あるいは臨時の助郷役が課された場合、遠方だと急な需要に間に合わないということもあって、実質的には必要な人馬を雇って代替してもらうことになっていたし、結果的にはその方が負担も軽減することができたものと考えられる。少なくとも、一八世紀後半以降には、とくに提供する場所から遠い村々から実際にその村人が人足に出たりその村の馬を出したりというよりも、雇い替えの世話をする請負人たちが、広範囲に一括して賃銭で人馬を確保するというかたちが一般的になっていくのである。結果的に、村人たちは金銭で負担するようになり、交通量が増える幕末期にかけて、この金銭負担に苦しむようになる。従来交通の役を負担してきた宿場や助郷村々の負担もさることながら、本来課されてこなかった村々での臨時の負担もこうして増えることになる。