図3-53 大沼田新田の嘆願書
文化2年7月「乍恐以書付奉願上候」(史料集30、p.286)
第一に、自分たちは、「困窮の武蔵野開発場」ではあるが、尾張家の鷹場でもあるので、それに関する「江戸通り人馬」を勤めているという。とくに、尾張藩主が鷹狩りにやってくるとき(御成)には、江戸の藩邸まで直通の人馬を出すが、これには往復で三日ずつかかる。また水子村(みずこむら)(現埼玉県富士見市)・下保谷村(現西東京市)・立川村(現立川市)にあった尾張藩の陣屋に詰めていた役人たちが、江戸往復のときに必要な「御荷物」を馬に乗せて送り届ける。これらには賃銭が支払われるが、農業を休んで勤める割には安すぎる。また、「餌取御殺生(えとりごせっしょう)」(鷹の餌のための鳥を捕ること)も頻繁でそのたびごとに人足を出すほか、上述した「三カ所御陣屋詰衆中」の通行に際しても人足を出すなど、武蔵野のなかでもとくに人足を多く出しているが、鷹場内のことなので賃金は支払われていないという状態であるとする。武蔵野新田は、新田開発のために本村から通っている人も含めて「出百姓」でしかなく、井戸を堀るに際しても自力ではできないので、玉川上水からの分水をもらって飲み水に用いてきたが、夏は渇水状態になる。そのため、玉川上水からの「樋口(ひぐち)」に「洩水(もれみず)」(漏水)がないように、幕府の普請方役人たちから、大沼田新田内にある四〇〇間余・高さ一丈余の大土手を維持するための「番人足」を出すように命じられている。しかし、この「番人足」は、「日々人足差出農業専一の時節甚だ難儀仕候(ひびにんそくさしだしのうぎょうせんいつのじせつはなはだなんぎつかまつりそうろう)」というように、農繁期に多くの労力を割かれるという大変困ったものである(史料集三〇、二八八頁)。そして、なぜ、このような用水にかかわる人足負担について記すのかというと、武蔵野新田場は他村と違ってとくに地味(じみ)も悪く、麦作も稲作も安定しないからだとする。これは、逆にいうと、こうした困難な状況のなかでも幕府あるいは尾張家からの役負担はきちんと勤めてきたので、これ以上の新しい役負担は拒否したい、という主張でもあった。
第二に、このたびの「差村(さしむら)」(助郷に指定された村)のなかの他の村々は、残らず「古村(こそん)」で「地味も宜敷(よろしく)」という状態であるのに対し、自分たち三新田は「武蔵野新田近来の開発場(かいはつば)にて右村々とは地症悉相劣悪土(ちしょうことごとくあいおとるあくつち)にて肥代金(こえだいきん)古村とは三増倍も余分相懸(あいかかり)取上げも右に順じ耕益(こうえき)これ無く、近来まで民家これ無く候処、漸(ようやく)民家相立候ても右の場所柄故潰百姓連々(ばしょがらゆえつぶれひゃくしょうれんれん)これ有り行立難く候(たちゆきがたくそうろう)」というありさまであると主張する。武蔵野新田は新しく新田開発されたところで、土質が悪く生産力が低いので肥料を購入する費用が古くからの村とくらべると四倍にもなるために耕しても利益はなく、これまで居住してこなかったところにようやく家を建てて移り住んでも潰れ百姓になってしまうというのである。そこで、年貢のなかから「御用捨(ごようしゃ)」といって免除される分があったが、これでも「百姓取り続き兼ね候」(百姓としてやっていけない)というのが実態である。したがって、「格別の御憐愍(かくべつのごれんびん)を以て養料金下し置かれ、右御手当を以て肥代金足合(たしあい)に仕り、強生成(ごうせいなる)者は昼夜限らず出情致(しゅつせいいた)し今以て芝地開発仕候得共、虚弱成(きょにゃくなる)者は折角(せっかく)開発候畑も芝地に差戻漸露命(さしもどしようやくろめい)を繋罷在候者数多(つなぎまかりありそうろうものあまた)これ有り」という状態であるという。幕府から特別な配慮を受けて養料金をもらい、それを肥料購入費用にあて、体の強い者は昼夜ともに働き芝地を開発して畑にしているが、虚弱な者はせっかく開発した畑を芝地に戻してしまいようやく命を永らえているという状態の者が多いのである。とりわけ生産力の劣った新田場の村であり、養料金を下付されてやっと相続しているが、それでも潰れ百姓が生まれるほどの困窮状態であることを強調するのである。
第三に、武蔵野新田は、「八十か村余組合打並(うちならべ)これ有り、御公儀様御取扱(ごこうぎさまおんとりあつかい)も都(すべ)て一統(いっとう)に御座候処(ござそうろうところ)」というように、八〇か村の武蔵野新田全体として一つの組合村を形成し、共有してきた権利などがあり、幕府からの取り扱いも同等だった点を強調する。この三か村だけが八〇か村の「組合」から引き離され「新助合(郷)」を命じられたら、どうにも嘆かわしく、困窮の百姓の「退転」は避けられないとするのである。しかも、この三か村は、大沼田・野中新田が伊奈友之助代官所管下、柳窪新田が早川八郎左衛門代官所管下というように、管轄する代官所が異なっていたことに注目するならば、同じ幕府領だとはいえ、この三か村は直接の支配関係を越えて共闘していたといえる。