拡大される助郷役

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三か村だけが巻き込まれた争論のなかでの論理にすぎないが、こののち公的な交通が急速に増加する一九世紀半ば頃から、繰り返し助郷負担が強いられ、小川村と廻り田新田以外にも拡大されるなかで、この論理は武蔵野新田で広く共有されるものとなっていく。とくに幕末期になると、①開港以降、江戸周辺では江戸湾防備(海防)のための武士たちの動員があり、②文久三年(一八六三)には将軍家茂(いえもち)が家光以来二〇〇年ぶりに上洛し、③文久改革の一環で、江戸在住の大名・旗本の家族が国元、支配地へ帰り、さらには、④皇女和宮(かずのみや)が家茂に嫁すために江戸へ下向する、という政治状況のなかで、役人たちの動きも活発になり、多くの宿とその助郷村々では人馬の確保ができなくなる。そこで、これまでの慣習に反して、武蔵野新田の村々に対しても、助郷に組み込もうという動きが相次いで起こることになる。
 まず、嘉永三年(一八五〇)には、廻り田新田が日光社参(「御法事につき」)に際し、中山道岩淵宿(現北区)・川口宿(現埼玉県川口市)へ当分助郷を命じられている。廻り田新田では、まず「御免」(免除)を願い出ており、そのときの惣代頼み証文も残っているが、認められず、他の五か村(清水村、奈良橋村、後ケ谷村〈以上、現東大和市〉、久米川村、廻り田村両組〈以上、現東村山市〉)と「六ケ村組合」を形成して、「当分助郷」(臨時の助郷)を勤めている(史料集三〇、三五〇頁)。このとき、小川村には、法事中、中山道浦和宿(現埼玉県さいたま市)への「加助郷」が命じられた。浦和宿の助郷村々が「日光御成道増助郷」を命じられた代わりである。文久元年七月(一八六一)には甲州道中府中宿から大沼田新田ほかの武蔵野新田村々を助郷村に指定する動きがあったが、免除を要求しているようである(史料集三〇、三六一~三六二頁)。この嘆願書のなかで、文政七年(一八二四)、甲州道中下石原宿から幕府に対して関野新田・梶野新田(以上、現小金井市)を助郷に指定したいという嘆願があったときには、幕府役人が村の状況を調査にきて、承諾するよう求められたが、本来助郷免除であり、養料分は年貢から免除されているという武蔵野新田の特権を主張して結果的には免除になったことを記している。しかし、このときに免除されたかどうかは不明である。
 文久元年一〇月には、皇女和宮が将軍家茂と結婚するために中山道を下向してくることになり、公卿たちへの人馬も含めて大量の人馬が必要となった。このときには、武蔵野新田村々も中山道浦和宿への助郷を引き受けざるを得ず、「当分増助郷」となった廻り田新田ほか五か村では「助合村々議定書」を結び、負担方法などをあらかじめ決めたうえで浦和宿へ実際に人馬を出している。このときの六か村は、廻り田新田・大沼田新田・柳窪村・同新田・鈴木新田・芋窪新田(現立川市)で、翌年三月には寄合を開催して六か村組合で入用を取り調べ、各村の負担額を決めている。

図3-54 「和宮様御悦礼御参奉中仙道御固衛御大名附」
(野田市立図書館所蔵)

 文久三年三月には「御変革仰せ出され諸家(しょか)当主並びに家族家来妻子等国邑(くにむら)引っ越しにつき人馬多く入り候間」と、小川村をはじめ武州多摩郡の村々に対して中山道浦和宿への当分助郷が命じられており、「当三月朔日(ついたち)より勤め埋(つとめう)め」をするように求められている。参勤交替が廃止され、領地に居住することを許可された大名本人と家族や家来とその妻子たちが国元へ引っ越しをしはじめたので多くの人馬が必要となり、小川村をはじめとする村々は浦和宿へ当分の間助郷が命じられた。それも、実際に人馬を出す代わりに一定の費用を、三月一日にさかのぼって支出することが求められたので、そのために廻り田新田・柳窪新田では、前者が玉川上水縁御用を理由に、後者が田無宿定助郷を理由に道中奉行にあてて免除嘆願書を出している。同時に、両村の困窮状況を村高やそのうちの「出石」「越石」分、家数・人数とそのうちの水呑・潰家と老人・女子・病気の者の数までくわしく書き上げることで、反対運動を繰り広げる。なお、このときには、四月に鈴木新田にも当分助郷が命じられ、こちらも反対運動を起こしている。ここで注目したいのは、廻り田新田・柳窪新田と鈴木新田は、すでにみたような、武蔵野新田に共通する論理で反対するのだが、廻り田新田・柳久保新田と鈴木新田はお互いに批判しあい、共闘しなかったことである。鈴木新田が同村独自の反対運動の結果、当分助郷を「皆免除」にされたのに対し、廻り田新田・柳窪新田では、「勤高の内七分通御免除」と裁定されたことに反発した。鈴木新田は七四〇石、一五〇軒と「大高富裕」なのに、なぜ優遇されるのかと憤ったわけである。
 元治元年(一八六四)一〇月には、小川新田ほか四か村が、甲州道中内藤新宿助郷和泉村ほか一三か村の代わりに助郷を勤めるように命じられている。助郷役を勤めてきた和泉新田ほか一三か村が「御煙硝蔵御警衛並びに砲薬運送手返等の御用」に任じられたため、その代わりというわけである。彼らは、繰り返し主張してきたような武蔵野新田に共通する助郷役を負担してこなかったという論理のほかに、幕末期に頻繁に助郷が命じられるようになったことや幕府領で農兵取り立てがはじまったということも理由に含めて助郷命令の撤回を要求する。一一月になると、「御進発御用」(長州戦争のための出兵)の準備が始まり、内藤新宿からの助郷一件が片付かないことへの不満もあり、小川新田・野中新田三組・大沼田新田の五か村に柳久保新田・廻り田新田も含めた七か村で反対運動を起こしている。
 続いて、慶応元年(一八六五)六月には品川宿への当分助郷を命じられた小川村が勤め高の五分免除を、鈴木新田が二分五厘勤め(七分五厘免除)を要求している。一〇月には、関野新田・梶野新田・廻り田新田・大沼田新田の四か村が、品川宿の当分助郷は村高の二分五厘にしてくれと嘆願している。長州戦争のために、東海道を上る行列が相次いだはずで、急増した交通量をまかなうためには、幕府もなりふり構わぬ宿駅・助郷助成策をとるしかなかったのである。
 こうしたなかで、「勤め埋(つとめうめ)」という負担方法が求められることになる。すでに新たな助郷負担を命じられた村から実際に人馬を出すのではなく、宿場や江戸などの請負人が金銭で人足を調達するという方式になっていたことがその前提である。少なくとも交通量が激増した東海道の宿場では、いたるところで多くの人馬を確保することが求められたが、すでにそれを請け負って調達する商人たちや、雇い替え賃金に生活基盤を置く街道筋の日雇い的存在が広範囲に生まれていたのである。同時に、この方法だと、実際には行くことのできない遠方の宿の助郷に組み込むことも、過去にさかのぼって負担させることもできるようになる。こののち、慶応四年三月からは維新政権側(官軍)の江戸進軍、天皇の二度の江戸・東京への行幸およびそれに関連して増加する上り下りの役人たちのための人馬を確保する必要が生まれるが(後述)、維新政権は、江戸幕府の宿駅・助郷制度をそのまま継承する。そして、この「勤め埋」金制度を採用するのである。廻り田新田では、明治二年(一八六九)三月になってから、慶応元年五月の「御進発御用」のときの負担(このときは村高の五分通りの勤め)、慶応四年三月の「官軍御用」、明治元年一〇月の「御臨幸御用」(高一〇〇石につき人足四〇人の割)、同五月の田無村への当分助郷など、それこそ幕府から命じられたものと維新政権から命じられたものとの区別なく負担させられているのである。維新政権は、慶応四年五月、京都の駅逓司に「宿助郷一体勤め」を趣旨とする、宿駅の助郷制度改編を進めさせる。たとえば、東海道では、一つの宿場に指定された助郷村々の合計の石高を七万石、中山道では五万石という規準で再編成し、助郷に指定された村では、村高の「四分勤め」(村高から諸引き高を除いた残高の四割)という規準で一か年間に限り助郷を勤めることにされたわけである。新たに組み込まれる村が納得するはずもなかったから、組み替えは大幅に遅れ,実際には明治二年の二月までかかったうえ、新たに組み込まれた村々は相次いで猛反発をするようになった。とても「正人馬(せいじんば)」では勤められない範囲(実際に人馬を村から派遣することのできない遠距離)で新たに助郷を設定し、しかもすぐに精算するのではなく、あとから一定の規準で金銭で納入させるというわけであるから、新たに指定された村々では、あとから一定の基準で機械的に負担金だけかかってくるという、とうてい納得できないしくみだった。千葉県の村々の場合、江戸湾をこえて、現在の静岡県の沼津(現静岡県沼津市)から神奈川県の保土ヶ谷(現神奈川県横浜市)までの宿場にそれぞれ割り付けられたため、納得せず、この制度が明治三年三月で終わったあとも宿側への不払いを続けて長い期間の訴訟になり、決着したのは明治一二年だった。当初の予定額の二〇分の一程度に減額し、それでも払えないところには政府が貸し付け、最終的には貸付金そのものの返済も免除するということで決着したのである。大沼田新田は甲州道中駒木野宿小仏宿へ付属、小川村は神奈川宿へ付属させられた。千葉県の村々同様に、すぐさま反対運動を進めているが、その詳細や結果はわからない。

図3-55 「御臨幸御用品川宿助郷入用割合」明治元年(史料集30、p.542)

 しかし、幕末になって急にさまざまな理由で、さまざまなところに転嫁された助郷負担に対して、鈴木新田のように優遇されるところがうまれることで村々のなかに矛盾は生まれてはいるものの、武蔵野新田村々は、全体としては武蔵野新田固有の論理で粘り強く組織的な反対運動を実施した。武蔵野新田の村々のなかでは、新たな助郷の押し付けなど一方的な負担を受け入れることには大きな不満や抵抗が生まれたはずである。次節でみる「御門訴事件」もこうした流れのなかでとらえる必要がある。