武州世直し一揆の勃発

762 ~ 763 / 868ページ
慶応二年(一八六六)六月一四日、武蔵国秩父郡上名栗村(ちちぶぐんかみなぐりむら)(現埼玉県飯能市)とその周辺村落より、三〇〇〇人ほどの一揆勢が蜂起(ほうき)した。同日、飯能(現埼玉県飯能市)・牛沢(うしざわ)(現群馬県太田市)・扇町屋(おうぎまちや)(現埼玉県入間市)・藤沢(ふじさわ)(現埼玉県入間市)・所沢(現埼玉県所沢市)などの宿村へ押しかけ、米問屋(こめどんや)など富裕な家の屋敷を打ち壊し、さらに、田無・八王子・府中などの多摩地域の宿場を目指して南下しようとしていた。この報せを受け、支配地域も危機にさらされている代官江川は、手代・手附・農兵の訓練にあたっていた教示方(きょうじかた)などを各方面に派遣し、農兵を動員して鎮圧にあたることになった。
 一揆勢の蜂起の要因は、開国以後の物価騰貴等により、貧農層の多い地域では格差が更に拡大したことにあり、一揆勢は質物(しちもの)返還や物価の引き下げを要求し、各地の豪農商や高利貸しを打ち壊した。一揆勢にとっては「平常貧民を恤(あわれ)まず、一己(いっこ)の利欲を事とし迷利不仁の奸商(かんしょう)共」「横浜の夷狄(いてき)と売買いたし候財雄の商人とも并に糸運上取り立て肝煎(きもいり)と唱え候もの」により、餓死するほかないところまで追い詰められており、蜂起するほかなかったのである(『武州世直し一揆史料(一)』)。
 一揆勢は、椀(わん)・箸(はし)・杓子(しゃくし)と「世直し」の文字を描いた幟旗(のぼりはた)を立て、大鉈(なた)・大槌(つち)・大鋸(のこ)・大斧(おの)・鎌(かま)などを手に持ち、蓑笠(みのかさ)を着て村を出た。椀・箸・杓子の絵は、自分たちが食事すらできないほど追い込まれていることをあらわし、手にした大鉈などは、すべて農具であり、雨天時の農具の蓑笠と併せて、自らが百姓であり、百姓としてまっとうに暮らしたい、という訴えが、幟や手にした得物に込められている。一揆勢は富商を打ち壊していくが、打ち壊しはあくまで異議申し立てが目的であり、そのため、決して食物や金品を奪ってはならず、この決まりを破る者は、仲間内で斬首(ざんしゅ)するとまで定めているのである。近世の百姓一揆は、このように異議申し立てのための作法にのっとって行われ、主張は、あくまで百姓として普通に暮らしたいという「百姓成立(なりたち)」を求めるものであった(保坂智『百姓一揆の作法』)。一方で、天保七年(一八三六)に甲斐国(現山梨県)で起こった「甲州騒動」では、一揆勢に多くの無宿・浪人などの「悪党」が合流し、一揆勢は武装したうえで、盗み・放火などの、従来の百姓一揆の作法から逸脱した行為を行い、幕府も、甲州騒動の鎮圧の為に武力を行使した。甲州騒動はそののち「物語」となって広く知られようになるが、この時、、百姓一揆に悪党による暴力というイメージを付与した。甲州騒動の記憶を持つ人びとにとって、大規模な百姓一揆は、地域を暴力で破壊する悪党の集団として恐れられるようになり、武州世直し一揆の情報は、多摩地域に恐怖をともなって広がっていく(須田務『幕末の世直し 万人の戦争状態』)。しかし、小平市域の人びとには、地域を護るための武力である「農兵」があった。

図3-56 「根岸家諸記録 打ち毀しの図」
(国立国会図書館所蔵、デジタル化資料)