武州世直し一揆の一報は、「大急ぎ廻状」で、田無村名主下田半兵衛より六月一四日の亥の上刻(二二時過ぎ)発せられ、翌一五日の朝には小川村へももたらされた(小川家文書)。小川村の御用留には、武州世直し一揆の報せを受けた小川村の様子が、生々しく記されている。最初の報せでは、一四日所沢村に一揆勢が三〇〇〇人程押し寄せ、数十軒を打ち壊し、田無村へ向かっているという。田無村でも、この時点では詳しいことはわかっていないが、非常事態なので、農兵を全員集めて対応策を考えるため、この連絡が到着次第、農兵人は鉄砲を持参して田無村まできて欲しいとある。この連絡を受けた小川村では、農兵の佐十郎(さじゅうろう)と、代人の徳左衛門(とくざえもん)ほか一名が田無村へ向かっている。同じく農兵である名主息子弥次郎と、組頭息子勝五郎は代人を出している。また、小川新田名主弥一郎(やいちろう)にも、農兵を出すよう連絡を出している。この日の夜には、府中宿の役人より、所沢村での打ち壊しの様子を詳しく知りたいとの連絡があり、わかり次第伝えると返答している。また、隣の蔵敷村組合農兵も、江川代官所より、田無村へ応援に行くよう命じられ、田無村へ向かっている(『里正日誌』)。
図3-57 武州一揆の発生を伝える小川村の御用留
(小川家文書)
江川代官所の記録によれば、一五日夜には、江川代官所からは鉄砲教示方の田那村淳(たなむらあつし)と長沢房五郎(ながさわふさごろう)が、足軽と共に田無村に派遣された。長沢と田那村は、農兵出兵について、江川役所からの以下のような命令を伝えている(『里正日誌』)。
秩父辺より騒ぎ立て凡そ人数三千人程所々乱妨及び、当支配所え打ち入るべき様子の旨訴えこれ有り候間、村々、農兵差し出し、見掛(か)け次第打ち殺すべく、尤も出役のもの差し出し候間、差図を請くべく候、以上
この命令は、六月一五日の深夜一二時(一六日〇時)過ぎ、小川村から蔵敷村へ伝えられているが、「見掛け次第打ち殺すべく」という衝撃的な命令が、深夜に農兵に対して伝えられており、事態の緊迫の度合いが分かる。農兵はようやく一六人が集まり、斥候を派遣して様子を窺(うかが)っていたところ、翌一六日の明け方、田無村から四キロメートルほど離れたところにある柳窪村(現東久留米市)に、二千人ほどの一揆勢が乱入してきたとの連絡が入った。一揆勢は柳窪村で名主宅を打ち毀し、次いで村人の七次郎(しちじろう)宅を打ち壊していた。そこへ、長沢らと、農兵一六人、村役人や人足など「強壮の者」一五〇名程が向かい、翌一六日正午一二時頃、ついに、一揆勢と農兵は戦闘に及ぶことになる。長沢等は、打ち壊しをしている一揆勢に説得を試みたが聞き入れられず、空砲で脅しても効果がなく、かえって武器を持って襲いかかってきたため、農兵隊はやむをえず発砲し、一揆勢は八名が死亡し、一三名が生け捕りになった。小川村の御用留には「打こわし人数田無村組合内農兵人其(その)外にて打ち殺し切り殺し候故、残り人数夫々逃げ去り候」と、この戦闘のようすが生々しく記されている。この時逃げた一揆勢の一部が小川村にもやってきたようで、「村方へも押し来たり候旨に付き村方手配致させ申すべき処、追い払い相成り候」とあり、無事に追い払うことができたようだ。その後も、久米川村(現東村山市)や日比田村(現埼玉県所沢市)で一揆勢が出没し、農兵がその取り締まりにあたっている。
二一日には、江川役所の根本慎蔵(ねもとしんぞう)が、今後の取り締まりの心得などを農兵に教諭するために田無村にきており、小川新田弥一郎・八太郎(はちたろう)、小川村弥次郎(やじろう)、廻り田新田輔九郎(すけくろう)が呼び出されている。江川役所では、一揆後の地域のようすを確認し、取り締まりを強化するため、田無宿組合農兵と蔵敷村組合農兵総勢二〇〇名ほどで隊列を組み、周辺の村々を廻村した。こうして、農兵の最初の(地域を守る為の)戦闘は終わった。