江川役所の記録では、柳窪村での農兵と一揆勢との戦闘について、以下のように述べている。柳窪村へ向かったのは、農兵一六人のほか合計一五〇人ほどであるが、そのうち「不惜身命(ふしゃくしんみょう)相働き候者農兵一六人外村役人強壮のもの等にて三六人にこれ有り、其余の大勢のものは遠巻(とおま)きにいたし候」と、実際に命がけで戦闘に参加したのは、農兵一六人と、そのほか二〇人程のもので、残りは遠巻きに傍観(ぼうかん)していたというのである。村人にとって、武器を携えた相手に応戦することは容易ではなかったことがわかるが、訓練を受けた農兵は、地域や幕府の期待に応えたわけである。それでは、この農兵以外の、不惜身命に働いた者たちとは、誰なのだろうか。
府中本宿村(現府中市)の名主内藤重賢は、武州世直し一揆のようすを「県居井蛙(あがたいせいあ)録」「慶応二寅月諸方打毀(うちこわし)騒動并窮民(きゅうみん)救記」という記録に残している。この記録のなかで、一六日の一揆勢との戦闘について「小川無宿人幸坊とか云う人、子分四五十人連れ来たり防ぎ候」との記述がある(『武州世直し一揆史料(二)』)。「無宿人幸坊」とは、本章第五節で見た小川の幸蔵と考えて間違いないだろう。記事は続けて、田無に出兵していた農兵が小川村に戻って一揆勢の残党と戦闘になり、幸蔵とその子分も戦闘に参加し、五・六人を切り殺し、一〇人余を捕らえたというのである。見聞を記録したもののため、必ずしも事実を伝えているとは限らないが、幸蔵とその子分数十人が、柳窪や、その後小川村へやってきた残党との戦闘にさいして戦ったことは間違いないようである。
幸蔵は、本章第五節で見たとおり、安政四年(一八五七)に、殺人などにより一旦帳外(ちょうはずれ)となっていたが、慶応元年一二月(一八六五)、村から迎えられる形で小川村に戻っていた。市場の再興などに従事するが、一方で、慶応二年三月の御用留の記事に「四番組幸蔵・佐十郎罷出(まかりいで)調練の義村方にて人数拵(こしらえ)稽古仕り度由」とあり、小川村で独自に農兵の稽古をするように図っている(小川家文書)。佐十郎は、武州世直し一揆との戦闘にも参加している農兵の一人であるが、幸蔵は当然農兵ではない。しかし、幸蔵が農兵の調練にも関わっていた可能性があるのである。
小川村の人びとにしてみれば、そもそも、幸蔵のようなアウトローから地域を守ることこそが、農兵設立を受け入れた動機だったわけだが、その幸蔵が農兵の訓練に参加し、一揆勢との戦闘にさいしては、手下を引き連れて一揆勢から村を守ろうとしたわけである。アウトローは、一揆勢と合流して一揆勢の暴力をエスカレートさせることがあり、武州世直し一揆に際しても、アウトローが一揆勢に合流している事例が見られる(『武州世直し一揆史料集(一)(二)』、須田努『幕末の世直し 万人の戦争状態』)。武州世直し一揆の情報は、日常的にアウトローに悩まされてきた小平市域の村々にとって、アウトローが一揆勢にどのように対応するかという点でも、予断を許さない事件だったのである。